昔から「変な柄の服を着る」というのが密かな夢でした。
「ハイそうですか。じゃあ着れば?」という話かもしれませんが、実はそんなに簡単に実現する夢ではないんです。
私はワガママで頑固で、自分に合ったシルエットの服しか着たくないんです。
通販で買った服のウエスト位置が理想より2cm高いだけで心の中のワガママガールが拗ねる、そんな難しい人間なんですね。
今まで見かけてきた変な柄の服の中で気に入ったシルエットのものがなかなか見つかってこなかったのと、変な柄の服は通販で販売されていることが多く試着しにくいのが今の悩みです。
街中で変な柄の服を着た人を見るととても羨ましく感じます。「早く私もそこに行きたい!」と悔しい気持ちが顔を出します。
トレンド感を大切にしてみんなに受け入れられやすいファッションを作るのが目的なら、(ある程度の知識や経験が必要とはいえ)その時代の「これがかっこいい」や「これが綺麗」といったルールを自分に適用してピースを組み合わせるだけでもそこそこの仕上がりまでには持っていけます。
ただ変な柄の服はスタートが既に変な訳ですから、そこから「アラ素敵!」と自分が思える状態になるためには自分のことをよく理解した上で身体的特徴も内面から湧き出る雰囲気もフルに活かしてコーディネートを組む必要があるんですよね。
だからそう簡単なことではなくて、これに関しては「とりあえず何かを買ってみる」ではなく「いつか気に入ったものと出会える瞬間が来るのを待つ」ことが自分に合った選択だと思っています。
「君に決めた!」という瞬間が訪れたとき、ワッとインスピレーションが花開いて自分の世界が湧き出す予感がするんです。
しかし、そんなことをぼんやり考えているうちに更なる憧れの存在が現れてしまいました。
それがご近所に現れたトップレスおばあちゃんです。
どの田舎にも「近所の人みんなに優しくて、いつも機嫌がよさそうで、いつもニコニコ挨拶してくれる」というご老人がいらっしゃるかと思うのですが、私の近所にもそのようなおばあちゃんがお住いで、よく他のご近所の方と楽しそうにお話されています。
で、ある日、母がそのおばあちゃんのお家の前を通りかかったときに、おばあちゃんが外に出した椅子に座ってトップレススタイルで涼んでいらっしゃったそうなんです。
おばあちゃんは母の存在に気づくと恥ずかしげにされていたそうなのですが、その話を聞いて「なんてすごいおばあちゃんだ。どれだけ世界を信頼し、世界に信頼されているんだ」と驚きました。
私がトップレスで外をうろつこうものなら「この人どうしちゃったんだよ」という目で見られると思いますし、職質は免れないでしょう。また、変な人を引き寄せてしまいおかしな出来事に巻き込まれてしまうかもしれません。
しかしいつもご近所に心の中の広い海のような優しさや寛容性を見せているそのおばあちゃんなら、トップレスでいたって不審だと思われることはなく「あらあら、暑いですものね」で済む訳です。
そもそも私はこの世界の屋外で上半身の素肌をさらけ出そうと思えたことが人生一度もありません。
おばあちゃんはトップスを着ていないように見えて、実は自分に対する信頼や世界に対する信頼を身にまとっていらっしゃったのではないでしょうか。
それこそ何だか「かっこいい人」のように思えてくるんです。
人ってコミュニケーションの生き物じゃないですか?他の生き物のように大体の感情や警告が伝わればそれで十分生きていけるはずだったのに、一生懸命話し言葉や書き文字や点字や手話といったツールを作って、言語を構築して、自分のことを知ってほしい、あなたのことを知りたいという一心で生きてきたのが人間じゃないですか。
ファッションもまたコミュニケーションの一部だと思います。
言葉を介さずに身につけているものから視覚的に自分のことを知ってもらえるツールという機能も担っているでしょう。
そう考えると「自分だけ何も着ずにそこにいることが許されている」というのは、圧倒的なコミュニケーションの成功者であり、究極のファッションでもあると思えなくもないでしょう。
だから私もそういう人にいつかなりたいんです。
みんなに「あなたは普通で正常ですね」と認めてもらえる記号だけを組み合わせた身なりや言葉を使っていないとそこにいさせてもらえない人でい続けたいんじゃないんです。
ルールもマナーもTPOも何のために存在するのか突き詰めてよく考えると、結局のところ「人を守るため」に存在するのだと思います。
本当に大切なのは人を守ることであり、そこに真摯に向き合い続けていれば、例え多少のルールやマナーを守っていなくてもあっさりと受け入れられてしまうくらい周りの人の心を豊かに和ませられるわけです。
服を着ていても着ていなくても、生身の本質が包み隠さず素直に見えているから周囲に安心してもらえて気にされない、そういう存在になりたいです。