エイリアンシリーズ観てます!エイリアン4は好みでなかった

エイリアン4はね〜好みではなかったですね。

 

エイリアンシリーズはどの作品も映画としてちゃんとしていてすごくまともだと思いました。だからあくまで好みの問題であってシリーズ内のどの作品も駄作だとは全く思いませんし、エイリアン4が大好きな人ももちろんいると思います。

 

エイリアン4は、エイリアン〜エイリアン4まで続いた「主人公リプリーvs エイリアン」のバトルの最終章であり、それに相応しい展開やインパクトもきちんとあったと思うので作品としてはすごくいいと思います。

 

ただとにかく私の好みではなくて正直おもんなかったです。

 

エイリアンシリーズでは、第一作である「エイリアン」とその前日譚である「プロメテウス」、「エイリアン︰コヴェナント」はリドリー・スコット監督が手がけ、その他の作品はそれぞれ別の監督が作っていたと思います。

 

そんでもって、その中でエイリアンの見せ方が最も好みなのがリドリー・スコット監督なんですよね。

 

他の監督はエイリアンを人間の敵と位置づけて、何やかんやで「エイリアンが死ぬべきなのは当たり前のことであり、人間の方が善である」と思ってるんじゃないかと感じる節があります。

 

一方で、リドリー・スコット監督はまんま"世界の創造主"の視点というか、エイリアンにも人間にも存在そのものには善悪の価値付けをしてないように感じます。

 

第一作である「エイリアン」では、複数の人間が乗った宇宙船が任務を終え地球に帰る途中で他の星から謎の信号を拾い、会社の規則に従って調査しに行ったところエイリアンにバチバチ襲われ、エイリアンを倒さないとこっちが全滅しそうだから頑張って戦ったという話なんです。

 

これは筋が通っていますよね。誰が良い悪いという話ではなくて、エイリアンは自分の生態通りに人間を殺すし、人間は生き延びるためにエイリアンと戦うし、弱肉強食の自然界の法則に従った「世界のありのままの姿」を描写していると思います。

 

これがね〜なんかエイリアン2以降は…。

 

エイリアンには悪意はないのに、常にエイリアンが苦しむのが当たり前、殺されるのが当たり前、利用されるのが当たり前、「人間が絶対的に大事」みたいに思ってないか?と感じられる雰囲気で「それはちゃうんちゃう?」と思いました。

 

その最たる作品がエイリアン4だと思います。

エイリアン3のラストで、卵を産む能力があるエイリアンクイーンの幼体に寄生されたリプリーは「こんなもん体から生み出しちゃったらみんなが危ない!地球が危険!」ということで自ら身を投げて幼体ごと命を落とします(エイリアンの生態上、寄生先から幼体が出る際にどちみち寄生先は死んでしまう)。

 

エイリアン4では「エイリアンを研究・利用すればお金儲けできるのに!もったいない!ぐぬぬゥ」と思った人達がリプリーの血液からリプリーのクローンを作り上げ、リプリーごと幼体を再現してエイリアンクイーンを育成・拘束・研究するところから始まります。

 

このときにリプリーの遺伝子とエイリアンクイーンの遺伝子が混ざったようで、話の後半ではエイリアンクイーンは突然卵生から胎生の生物となり、今までエッサホイサと卵を産んでいたのに急に子宮を持ち、エイリアンと人間の融合体のような成体(ニューボーン)を生み出すことに成功しました。

 

このときクイーンは結構頑張って出産していましたし、ニューボーンに対して喜びと慈愛の感情を持ってそうな雰囲気を醸し出していました。

 

それにも関わらずニューボーンは、生まれてすぐに母であるクイーンを殺害し、瞬時にリプリーを親扱いしてなつきます。

 

え…は?

 

と私は思ってしまいました。

 

全ての生物が生みの親を慕う必要性はないと思うんです。親が必ずしも子を愛し大切にしてくれ、子の安心安全が守られるとは限らないからです。

 

でも少なくともエイリアンクイーンは子供への愛があるタイプだと思います。シリーズ内で出てくるクイーンはみんな卵を一生懸命に産み続けますし、外敵が現れたら敵に直接攻撃するよりも卵を守ることを優先します。

 

クイーンが人間を積極的に襲い回るのは、大抵人間に卵を破壊され子供を殺されて「キィェェーーー!!」と悲しい悲鳴を上げてからのように感じます。

 

ニューボーンを産んだクイーンも喜んで我が子であるニューボーンを見つめてました。少なくともニューボーンに危害を加えるようなことはひとつもしていません。

 

逆にリプリーがニューボーンに何をしてあげたっていうんだよ?と思ってしまいました。

 

ニューボーンが誰を愛するかはニューボーンの自由ですよ。でも子供というものは、大体自分を大切に育ててくれた存在に懐くか、生態によっては最初に見た大人に懐くと思います。

 

そのどっちでもないリプリーに対して、特に説明も説得力のある背景もなく瞬時に母親扱いして懐くのは、制作側の「エイリアンは醜いモンスターであり悪。人間こそが善で美しく正義」という偏見の表れなのではないでしょうか?

 

そんでニューボーンはどうなったかというと、最終的に当たり前のように死んじゃうわけですが、これもなんか普通にかわいそうでしたね。

 

確かにニューボーンも人を殺していましたが、生まれたばかりだからこそ無邪気で残虐で教育が行き届いてないだけの行動でもあると思いましたし、リプリーを必死に追って愛情を求めることを第一の目的にしていましたし、変に人間くさい骨格をしていて喜怒哀楽も持っていたのに、シリーズ内の登場キャラの中で1番グロテスクで可哀想な死に方をさせられ悲鳴を上げる姿がじっくり描写されていて、コレなんなんよ?と思いました。

 

ニューボーンが地球に降り立ったとて人間を殺し回るか人間に捕まって研究され軍事利用されてしまうだけだろうからリプリーの手によって殺すしかないというのは分かります。でももうちょっと穏やかに死ねるシナリオにできんかったんかと…。理由のない胸糞展開、理由のないグロってなんか好みじゃないんです。

 

なぜエイリアンクイーンではなくリプリーが母親として選ばれたのか、なぜニューボーンが特別残酷な死に方をしないといけなかったのか、その理由が、この世界を作った制作側が持つ「人間様の方が正義だし」という格付け意識の反映であること以外に特になさそうに感じられたのが私にとってはフツーにおもんなかったです。

 

あと「エイリアンを実際に拘束して研究してしまう」というのがエイリアンの見せ方として好みではありません。

 

エイリアン自身はシンプルな生き物なんです。やってることと言えばただ一生懸命繁殖して個体数を増やしてるだけ、縄張りに入ってきた知らん生き物を殺してるだけです(エイリアンから見ても人間達はほぼ未知の生き物な訳ですから「殺せるから殺す」という理論で動くのはそんなにおかしくないと思います。人間だって家に入ってきた見たことのない羽虫を理由なく殺すときもあると思います)。

 

一体何がエイリアンという存在を特別にしているかというと、容姿の特徴や生態を含め全てが人間にとって未知の不気味な存在であることと、非常に攻撃的な性質を持っている上に人間がマトモに戦って勝てることはほぼ確実にないくらい強いことだと思います。

 

だからこそ人間がエイリアンを拘束し、何かを明らかにしてしまったら、もうサスペンスホラーの主役としてのエイリアンの魅力は発揮できなくなってしまうんですよね。

 

もうね全然つまんない。利用するために捕まえようと躍起になるのはいいんですよ。でも本当に捕まえちゃったらダメだよ。エイリアンは頑張って逃げようとしたり卵を産んだりすることしかできないんだから、もうそこに神秘性はなくて、ただのエイリアンいじめになってしまうよ。

 

一方で、初作の「エイリアン」は、エイリアンの魅力がどこにあって、どう描写すべきかよくよく分かった上で作られていると思います。

 

「エイリアン」はエイリアンをお披露目し魅せることが目的そのものだったと思いますし、エイリアンに必要な静かな不気味さや「何が起こっているのか分からない」ことによる怖さと神秘性がしっかり描写されています。

 

卵やフェイスハガー、エイリアンのデザインや、エイリアンが住む星の構造というかデザインというか内装というかなんかアレが大変美しいので、その魅力を最大限引き出しながらちょっとずつ見せていくという展開になっていて、ゴチャゴチャしていなくて面白いです。足し算や引き算がきちんと機能されている美しさがあるように思います。

 

日本のホラーもそうじゃないですか。

例えば山そのものは、傍から見てる分には「緑だな〜綺麗だな〜自然の美だな〜」としか思わないですし、恐怖というよりは安心感をもたらしてくれるくらい親近感のある存在ですよね。

 

でも「いつも同じだと思っていた近所の低山に散歩がてらいつも通りに踏み込んだら、今日は空気の匂いも耳に入る音もなんだか違う、何が違うかはっきり分からないけれども確実に何かが違う、陽の入り方もおかしい…この時間ってこんなに薄暗くて生ぬるい空気になるものだっけ?来た時はよく晴れていたのに…動物達の気配がしない。今は何時なんだ?ここはどこなんだ?遠く先に見えるあの影はなんだ?自分の知ってる生物の形をしていない。目を凝らして見てみると、ゆっくり揺らめきながら少しずつ近づいてくる…近づいてくる速度に比べて影が大きくなる速度が異常に速い。どんどん大きくなっていく…ここは本当はどこなんだ?」となるとホラーに展開していくわけです。

 

テーマとして扱う対象そのものはシンプルだったりありふれていたりしたとしても、そこに「原因がはっきりとは分からないけれども確実に存在する違和感」があることで怖さが加えられていくと思います。

 

エイリアンも同じで、エイリアンという生物そのものは割とシンプルだけれども、不気味な見せ方をすることでグッと魅力が引き出されると思うんですよね。

 

1作目より先のシリーズではエイリアンをお披露目するだけではいけないからこそ色々展開をつける必要があったのだと思いますが、さすがにエイリアン4ほどエイリアンから神秘性を奪わない方が良かったのではと思いますね。

 

私が大好きなパイレーツ・オブ・カリビアンの映画シリーズに対しても同じ感情を抱いたんですけど、人間の力が到底及ばない存在に対する畏怖が重要な要素になってる作品においては、人間は出しゃばっちゃダメだと思います。

 

別に私が人間を嫌ってるわけじゃないんですよ。ドキュメンタリー映画もホッコリ日常系映画も大好きなんです。見せたいものの魅力が丁寧に表現されている作品が好きなので、人間がメインなら人間の感情を機微にキャッチして描いてほしいし、人間以外がメインならそう見えるように描いてほしいんです。

 

そういう意味において、エイリアン4は人間がうるさすぎたように感じました。