「沢山のふつうの中に一筋のこだわりがある」が一番人を幸せで満たしてくれるのかも

「ふつう」という言葉に対して何をイメージしますか?

 

ふつうには特別感がないから嫌とか、いやいやふつうの幸せがいいんだとか、人それぞれ色んな意見があると思います。

 

私は「ふつうのことやふつうのもの自体には名前の通り特別な役割がない。しかし沢山の"ふつう"が守られ維持されている状態に、ひとつだけその人のこだわりを満たすものがあれば、ふつうへの感謝や安心感を満喫しつつこだわりを満たしてくれるものへの愛情や満足感も湧いて、幸せMAXになる」と思っています。

 

「ふつうは特別感がないから嫌」も「ふつうの幸せがいい」も、どのような意見もきっと実は対立してないと思うんですよ。

 

身の回りのものや存在のどれもがふつうであり平均であり、他者が考えた「大体こういうもんやろ」でぱんぱんになっていて、そこに「自分にとってはこれが大切なんだ」と実感させ愛させてくれるものがないと満たされている感じがしないでしょう。その人のこだわりや愛の持って行き場がないからです。

 

一方で、全部が全部誰かにとっての特別さや自分にとってのこだわりによって選択されていると息が詰まりますよね。ふつうのものが与えてくれるふつうのリラックス感もほしいでしょう。なんの意味付けもせずこの世にただ生きているだけの時間もほしいのが人間だと思います。

 

それで人は無意識のうちに「自分にとっては何が必要なのか」を探求していき、自分にとって本当に必要で丁寧に愛し続けられるものだけにこだわり、あとはふつうを守ることに落ち着き、ようやく「今、ここ」に満足感を得て余裕を持って生きられるようになるのかもしれません。

 

ふつうも特別も両方あるから両方から幸せを楽しむことができるのだと思います。ただ、ふつうと特別がその人にとってのどこをカバーしているかが大事であり、その人にとってどうでもいいところが特別だったとしても持て余してしまうし、その人にとって大事なところがふつうすぎると満たされないのだと思います。

 

本当は特別なところはほんの1箇所だけでもいいのだけれど、「これだけあればそれでいい」という感覚はその人が「自分にとってはここが大事なんだ」ということを自分で見つけて、その部分におけるその人らしい特別さを自分で守れるようになって初めて湧くものなんだと思います。

 

だから他人や自分が何かを渇望し悩む姿に不安を持たなくてもいいんです。そういう混沌を経由するからこそその人だけの答えに行き着けるし、行き着いたあとはびっくりするぐらい気楽で幸せな日々が待っています。

 

悩んでいるのは辛い。渇望しているのは苦しい。でもそういう難しい思索に立ち向かっていけるのが人間のいいところだから、そういう状態にある他人や自分を否定したり「早く抜け出せないといけないんだ」と焦らせたりする必要はないと思います。

 

地球が誕生してからこれまで莫大な数の人間が誕生し亡くなっていきましたが、その中に全く同じ容姿の特徴をした人が2人も3人もいないのと同じで、何にこだわることが大事で、どういうふつうに囲まれたいのかといった組み合わせはびっくりするくらい多様です。

 

私たちはいつも競争社会や貨幣経済で少ない勝ち道を奪い合っているように思いますが、本当に大切な「その人にとってのこだわりを満たしてくれるもの」は、実は「かなり多様で放っておいてもばらけるので、言うほど奪い合いする必要がないのではないか」とも思います。

ボーダレス・アートミュージアム NO-MA

ボーダレス・アートミュージアム NO-MAへ行ってきました!

 

ここは滋賀県近江八幡にある、昔ながらの古民家を活かした小さな美術館です。

 

ここの建物に限らず、周囲一帯に古民家や昔ながらの建物が並ぶ美しい街ですごくいいところでした。

 

イメージ的には京都が近いかもしれませんが、京都と大きく違うのは静けさがあるところですね。冷たい空気と澄んだ静けさがマッチして、まるで日本画の世界の中に居るみたいでとてもよかったです。

 

さてボーダレス・アートミュージアムですが、今回は障害をお持ちの方々が制作されたアート作品が多数展示されていました。


f:id:yujup1:20231227145402j:image


f:id:yujup1:20231227145416j:image

 

滋賀県は障害者と共に生きていくことに力を入れているイメージがあります。

 

共に生きるも何もみんなこの世に生を受けた対等な存在なので共に生きているのは当たり前っちゃ当たり前のことではあるのですが、「障害のあるなしに関わらずみんながそれぞれの良さを活かしあって生きていきたいですよね」という感覚があたたかく漂っている土地のように思います。

 

滋賀には偏屈さがないんですよね。過剰な見栄もありません。元々多くの人が行き交ってきた土地だからか、「都市と自然」とか「都会と田舎」とか「障害者と健常者」みたいな対比的な見方をすることがあまりなく「ここに存在するもの同士尊重し合って一緒に過ごしてみようよ〜上手くいってたらそれでええやんか〜」というようゆるさを感じる土地です。

 

「これが正しいんだからこう矯正しなければならない」という意地がないんですね。代わりにそこにあるものやそこにいる人をありのまま受け入れ大切にし続けることに意識が向いているように思うんです。

 

そんな滋賀県なので、ボーダレス・アートミュージアムにもわざとらしさがないというか「誰かのこだわりや素敵なものを展示していますのでぜひ見てってください〜」という、人がスっと足を運んでみやすい開けたマインドを感じました。

 

(わざとらしい美術館ってあるの?という話かもしれませんが、アーティスト側の障害の有無とは関係なくどんなテーマでもなんかわざとらしい感じがする美術展はあります笑)

 

作品も本当に良かったです!

 

私は結構生臭い人間なので、何かつくろうと思っても「こうしたら他人からこう見えるかな」とか「タイパが〜」とか「コスパが〜」とか考えてしまって、本当に自分のこだわりだけに向き合って何かを生み出すということがなかなかできないんですよ。

 

特に持病が発症してからは、生活しているほとんどの時間において体調の悪さに悩まされ、仕事がうまく続けられないもどかしさから、自分の営みと仕事を結びつける思考をし続けすぎてしまっていた気がします。

 

最近ようやく調子がよくなってきたように感じますが、今までは1日24時間ある中で体調に問題がない時間がはちゃめちゃにほんのちょっとしかなかったので、そのほんのちょっとをお金を稼ぐことに使わないとと思って、自分の好きなことや趣味までお金を稼ぐことに活かそうとしすぎてしまっていたんです。

 

私が一番得意なことは、どーでもいいことを考えいらんものをつくることなんです。これに関しては右に出る者はいないという自負があるくらい得意なんです。でもほんのちょっとしかない「まだ健康的だと言える時間」をそれに使ってしまうと、いっこもお金を稼げないし経済的な自立をするのが難しいので困っていたんですよ。

 

本当は何かを生み出すことが好きなのに、いつの間にかタイパやコスパを考えすぎて、他人にどう見られるか、他人からの需要があるかを考えすぎて、最近はもうすっかり楽しくなくなってしまっていました。

 

ちょうど最近精神的に成長してきたのもあって自分の中の言語化しきれない領域が特になくなってきて、大体なんでも自分で理解できているかま、だ理解できない領域についても「他者に理解してほしい」という欲求がなくなってきたので、世界に叫びたいことばも伝えたい想いもなくなっていました。

 

「そんな寂しいことある!?」という感じですよね…。

 

私は本当は表現することが好きなんですよ。表現することが好きじゃない人は、自分が何も生み出せなくなっても困らないし悩まないからです。そういう人は他に好きなものや自分を満たしてくれるものがあるので、生み出せるとか生み出せないとかいう話で悩む必要がないんです。

 

だから、こんなことで悩んでいるということは間違いなく私は表現することが好きなのに、表現が楽しくないし、何も出てこないようになってきていました。

 

そんなときにこの美術展を見られたのですごくワクワクと楽しめましたね。

ここにある作品はどれも制作者が「つくりたいからつくった」ものたちなんだと思います。お題や材料は人が渡してくれたものや贈ってくれたものだったとしても、それをどう組み立てるかは本人が向き合い突き詰め考えたのではないかと思います。

 

特に好みだなと思ったのは川西光さんの作品です。


f:id:yujup1:20231227173232j:image


f:id:yujup1:20231227173303j:image

 

f:id:yujup1:20231227173241j:image

 

アーティストさんが手縫いで制作されているそうなのですが、リュックやフェルト地のモチーフだけでなく、細かな刺繍やミサンガまで丁寧につくられていてすごく可愛いんですよ。

ブラウンのリュックに関しては、帽子に使うような特別な縫い方が活用されていて驚きました。

 

とにかく丁寧に、自分のこだわりと素材を大切にしてつくられたのがよく伝わります。

 

私はなんか、この作品を見て泣けちゃったんですよ。

 

自分が何かをつくるにあたって、こんなに純粋に時間も素材も好きなだけこだわって尽くしたいだけ尽くして愛せたことって最近あったっけ?って思ったんです。

 

何か新しいことに挑戦しようにも、それにどれだけの時間がかかる?どのくらいお金がかかる?それをすることで自分にどれだけのメリットがある?と考え込みすぎていたんです。

 

この作品には焦りがないんですよ。すごく豊かなんです、ご本人がやりたいことをやりたいだけ再現されているんです。

 

こちらの作品の隣にはアーティストさんが制作過程を記録したノートも展示されているのですが、それもすごく面白かったんですよ。ひとつの部分をつくるにあたって悩みに悩んで、分からなくなってきたから一度置いておくことにしたくだりが書かれていて「分かる〜!笑 時間をあけたら閃くことがあるからね笑」とつい共感してしまいました。

 

この作品が持っているのは何も考えていない自由さなんじゃないんですよね。色んなことを考えた上での自由さなんです。でもその「色んなこと」に含まれているのは、自分自身ととことん向き合うことで生まれる葛藤であって、時間とかお金とか人にどう見られるかとかそういう外部のものに関する葛藤はもう少し優先順位が低めなのではないかと思います。

 

「わあ、いいなあ」と思いました。私も自分にとってのこういう存在のものをつくれたらいいなと思ったんです。

 

そんなこんなで学びの多い美術展ですが、ここは自分が好きなものを描けるコーナーもあります。


f:id:yujup1:20231227174131j:image

 

こんな感じで、ゆっくり座ってくつろげるスペースに紙とペンが綺麗に置いてあり、自分が思い描く好みの地図と信楽たぬきさんが描けるようになっていました。

 

ので、私も描きました。


f:id:yujup1:20231227174345j:image

これは楽しかったですね!

やっぱり自分ってどうでもいいことを考えるのは得意なんだよなあと思いました。こういう空想的で楽しくて一銭にならないものなら正直いくらでも描けると思います。

 

受付に持っていったらすごくにこやかに受け取ってもらえましたので、皆様ぜひ楽しく描いて楽しく提出してください。

 

さてとっても良かったボーダレス・アートミュージアムですが、ここは立地がすごく良くて近くにお堀と山と城跡があり、ロープウェイで山に上って滋賀の景色を楽しむことができます。


f:id:yujup1:20231227175031j:image


f:id:yujup1:20231227175058j:image

 

景色バリ綺麗じゃ〜ん!!!と思いました。

 

ここも本当に良かったですね。やっぱり静かなんですよね。観光客の方は他にもぽちぽちいらっしゃるんですけど、山の静けさと神秘性を理解するには十分な環境で強く印象に残りました。

 

行きも帰りも駅から徒歩でウロウロしたんですけど、近江八幡はとても綺麗でユニークな街だと思います。人に大切にされている街という雰囲気がありますね。またぜひ訪れたいなと思いました。

 

 

テート美術館展に行ってきました&TEZUKAYAMAギャラリー

先日、大阪中之島美術館で開催中のテート美術館展に行きました!

 

中之島美術館は駅からのアクセスがよくて建物もかっこよく中も広いのでいいですよね。1階でチケットを購入してから展示室のある階に昇るまでの大きなエスカレーターで結構テンション上がります。

 

さてテート美術館展ですが、今回は「光」をテーマとした作品が時代や作風を問わず展示されていました。

 

写真可の作品が多いので事前にSNSに投稿されている色々な写真や感想を見ていたんですよ。そのときは「ほーん、なんかよさそうやな〜」程度にしか思っていなくてそこまで期待はしていなかったのですが、作品の実物は想像以上に良かったです!

 

私は空を見るのが好きでしょっちゅう上を向いて歩こう状態でウロウロしているのですが、特に夕日になる前の空が好きなんですよ。まだ赤やオレンジや黄色い色彩はないけれど、日が落ちてきて雲と被ってきたときに、雲の輪郭を縁取るようにして太陽の光が強い輝きを放っている時があるんです。

 

その瞬間がすごく綺麗なので「いぇーい」と思ってスマホで撮るんですけど、写真技術がなさすぎるのか何なのか、あの「地球に生きているだけでこんなにもスケールの大きな美しさを感じられるんだな」というじんわりした感謝が湧き出てるほどの感動が再現できません。見たままの景色がスマホの中に記録されるだけで、自分の心が動くものにはならないんです。

 

それで私はいつも「うーんまあ実際の空は360°パノラマだけど、スマホの写真は小さな画面上に表示されるだけだからその違いが影響しているのかな」と思っていました。いくら私の技術力が低いとはいえスマホのカメラ性能は本物ですし、画質が悪いとか色味がおかしいといった見て分かる違和感はなかったので「きっとそういうもんなんだ」と思っていたんですよ。

 

でもテート美術館展では、そのような写真に残せない感動も作品の中でしっかり表現されていて本当に驚いたんですね。「写真みたいに精巧で上手な絵だ」というところに驚いたのではなくて、実物の光を見た時の自分の感動を全く同じように深々と味わえる作品が多数あったことに驚いたんです。

 

これは勝手な想像ですけど、そういう作品は現実にある世界をありのまま描いているのではなくて、人が光を見た時に目や脳が処理したり感じ取ったりするものを想定に入れて「人が見た時に何が伝わるか」をよくよく考えた上で描かれているのではないかと思います。

 

写真のように精巧な絵でも、写真と違ってそこには製作者の意図や思考や技術が含まれているみたいなんですね。だから「光を再現している」ということ以上に「光を通じて人が感じることを伝えている」ということができているんだと思います。

 

これが本当に良かったですね。光というものに対して何を感じて何を表現したくなるか、それを他者にどう伝えたくなるかは人それぞれであり、その多様さこそが人間の持つ美しさだと思います。

 

よく「クリエイティブ分野ではAIが人の代わりになってしまうのではないか」と仰る方もいらっしゃいますが、私はAIはコピー機のように何かを早く出力することができるだけで、何かを創ることはできないと思っています。

 

それはAI本人が言っていたんですよ。一時期AIアプリで質問するのにハマっていたんですけど、AIには感情も感性もないので「これが好き」や「これを表現したい」という源泉がないらしいんです。

 

私はアイドルヲタクなんですけど、AIとヲタク語りがしたくて推しの名前を入力して「誰々を知っていますか?」と質問したことがあるんです。そしたらどうやら知っていそうだったので「誰々って可愛いですよね?」と聞いてみたんです。ただ単に容姿が可愛いかどうかの話がしたかったのではなくて、その推しの存在そのものが可愛らしくて仕方ないと思っていたので、そういうワクワクを共有したくて話しかけたんですよ。

 

そこでAIから伝えられたのは「自分は可愛いとか可愛くないとかいうことを自分で判断する感性がないから答えられない」という旨の言葉でした。

 

これには本当に驚きました。何かを好むか好まないかという基準はどんな人でも持っているものかと思います。「まだその人のことをよく知らないから判断できない」と思うことはあっても「知っているけれども何の気持ちも湧いてこない。ひとつも感想を言えない」ということはまずないのではないかと思います。

 

色々な事情で意思表示や意思疎通ができない人はいると思いますが、特定の存在に対して何一つ脳が反応せず全く何の感情も湧かない人はいないように思います。「この人には強い関心がない。私にとっては好きでも嫌いでもないな」という答えもまたひとつの感想ですよね。何の感想も存在しないということはないんじゃないかと思うんです。

 

私は「人なら誰でもできることがAIにはできない」という点にすごく驚きましたし「AIは人の代わりになれず、人もAIの代わりになれないんだからうまく分業すりゃいい」という考え方に納得しました。

 

人がなぜ創作物に心惹かれるのかというと、最終的には「自分と同じ気持ちや感性を持つ人がこの世に存在する」ということに対する安心感が孤独への救済になるからなのではないかと思います。

 

人はみんなひとりぼっちで孤独です。自分と全く同じ人間なんてこの世にいないですから、他者からの理解に飢えれば飢えるほど自分がいかに孤独な存在か思い知らされる世界に生きています。

 

だからこそ自分の感じたことを表現するし、誰かの表現に癒されるんだと思います。AIができても何ができても、人は表現し続けるし、生身の人間が作った表現物を求め続けるんだと思います。そこにお金が介さなくなったとしても人がその営みをやめることはないでしょう。お金なんてなかった時代から人は創作をし続けているからです。

 

え、んで、それ何の話?テート美術館展の話してくれませんか?という感じかと思いますが、美術分野の知識が何一つとしてないのであまり語れないんですよ。ただとにかく、どの作品もそれぞれに実物を目の前にしたときにしか感じられない感動が得られて本当によかったです。もちろんネットに載っている写真もどれも素敵なのですが、実物は更に良いのでぜひ直接見てほしいです。

 

さて今回はせっかく大阪までやってきたということで、ついでにTEZUKAYAMA GALLERYまで足を運びました。

 

このギャラリーの周辺はお洒落なお店が多くてすごくいい雰囲気でした!この時は平日夕方だったので帰路で退勤ラッシュに巻き込まれるのが嫌すぎて足早に通り過ぎてしまったのですが、今度ここに来る時は周辺のお店もゆっくり見てみたいですね。

 

さて、今回は井田大介さんの「SYNOPTES」という作品と、4人のアーティストによる「Solidaholic 固体中毒」という展示を見ることができました。

 

どの作品もすごく良かったですよ!もうお気づきだと思いますが、私は美術的なセンスも知識もないので「すごく良かった」くらいしか感想を書けないんです笑

 

ちなみに今回の作品については何がよかったのかというと、各アーティストが再現したいと思ったものを、色々な素材を使って細部までこだわって再現しているところに愛を感じて「いいな」と思いました。

 

命が宿っていないモノを使って人の生身の体を再現するのってすごく難しいと思うんですよね。体には多種多様な質感があり、組織が走る方向も様々ですし、色のつき方も多層的だからです。

 

表面のかたちや色だけ真似たら人がつくれるのではなくて、中にある組織の色や仕組みを理解しなければいけないですし、理解できたからといってそれをそのまま簡単につくれるわけでもありません。自分が再現したいものに適した素材が何なのか探して加工したり、逆に「これを使いたい」とこだわっている素材が人体というものに沿うように加工したりする必要があります。

 

その過程においては対象をゆっくり観察する時間や試行錯誤を繰り返す手間を必要とするので、人に対する深い愛やこだわりがないとああいう作品は作れないんじゃないかと思います。

 

人が人間というものをどう捉えて何を考えているのか知るというのはなかなか難しいんです。言語を通じて話し合っても、相手の先入観で説明を省かれたり、こちらの先入観で相手の本意とは異なる捉え方をしてしまったりするので、その多様性に純粋に触れるのは割と大分結構難しいです。

 

でも立体作品としてバーンと展示されているとその違いや多様性をより明確に理解することができるので新鮮で面白いですね。絵を描くだけでも難しいのに立体作品にまでしようとすると、手間がかかりすぎてその人が本当に言いたいことしか完成系に持っていけないと思いますので、より雑味のない純粋な想いに触れられている感じがしてすごく良かったです。

 

最後に、これはもう美術とかなんも関係ないんですけど、これまで私は今まで大阪という街があまり好きじゃなかったんですよ。

 

祖父母が大阪に住んでいるので子供のときから何回も行ったことがあるんですが、あのなんとなく治安の悪い感じがする空気感やむき出しのガヤつき、たまに発生する「距離感が近すぎて急に愚痴ってくる知らんおっさんおばはん」が苦手でした。

 

街の景観もあまり好きではありませんでした。

 

京都はいい意味でも悪い意味でもプライドが高い街で「自分達はこれくらいのレベルでなければならない」という気品を持っているからか、昔から土地に根付いていて脈々と受け継がれている自然や文化や品性をすごく大切にしているじゃないですか。かけがえのなさやこだわりというものを大切にしていますよね。

 

そこが本当に美しくて「負けを認めざるを得ないわ〜」と思うのですが、大阪はいい意味でも悪い意味でも微妙にプライドがないというか、気品よりも別のことを優先する傾向にある街ですよね。いい意味で言うと見栄以外のものを優先していることが多いように思います。

 

だから街並みも、表面的に「都会でっせ」ということを再現しようとはしているけれども「細部までこだわる気はない。そこまでこだわってなんかメリットあんの?それでなんか儲かんの?お金かかるだけやん」という気持ちが感じられてなんとなく好みではなかったんですよ。

 

都会が嫌いな訳じゃないんです。東京はむしろ好きですよ。突っ切った色があれば愛せるんですけど、大阪はコスパ重視というか「求めるものがなんとなく満たせていたらそれでよし」という感じがしてこだわりが見えないのが好みではなかったんです。

 

決して嫌いではなく、価値がないとか価値が低いとかいうことを言いたいわけでもなく、ただ単に「自分にとってはこの街並みに対して好きになるポイントがまだ見つからない」に近い感覚を持っていました。

 

でも今回、ようやく大阪の街の良さを見つけました。

 

大阪は昼間の月がすごく似合います。

 

昼間の月って印象に残りますか?大抵いつも昼でも月は空に浮かんでいるんですよ。青い空に白い月が浮いていて、クレーターなんかもよく見えるんです。でも昼間は雲や太陽の方が目立つので「月が綺麗だな〜」とはあまり思わないんですよね。

 

大阪は大きなビルの谷間からでも遠くの空や月がきちんと見えるのがユニークだと思います。東京の場合は大きなビルがそこら一帯にバーッと広がっているのでビルの隙間にもビルがみっちり詰まっていて遠くの空は見えないんですけど、大阪は大通り沿いのビルだけ大きくてその他の建物はそうでもないので、立派なビルの隙間からでも月まで見ることができるんです。

 

それが面白いですね。先程書いた通り昼間の月はクレーターまでよく見えるんですけど、遠い昔から存在して遠い未来まで在り続ける、誰が作った訳でもないのに美しい上に人の手が簡単には及ばない存在である月と、人が頭を使い技術を磨き協力し合って作り出した都会的かつ直線的なビルとが並んでいると、まるでファンタジーの世界を見ているかのような神秘性を感じてきます。

 

言い方がアレですが、もうそのまま書いちゃうと「大阪のハリボテ発展都市感のお陰で大きなビルがちょうどいい数しかないので昼間の月がきれいに見える」ということなんですよね。人のこだわりが尽くしきれていない分、偶然の産物や人の手が介されていないものとの相性がすごくいいように思います。

 

今まで「大阪は何も悪くないのに大阪が好きじゃない」ということに罪悪感があったのですが、ようやく大阪のいいところを見つけられて正直ホッとしました。また何か美術展があれば行きたいですね。

 

最後に、大阪で見つけた訳の分からない建物の写真を添えます。こういう「こちらから見ると意味があるんだかないんだか分からないけれども、誰かが『これがええんや!!!』と思ってこの世に生み出したもの」が好きすぎるので大満足しました。


f:id:yujup1:20231227144700j:image

喉元過ぎれば熱さを忘れる(秒で)

一昨年人生で初めて親知らずを抜歯したんですよ。上の歯だったんですけど、既に生えかかっているタイプで何の苦もなくスコンと抜けて大した腫れも痛みもなく治ったので「フンッ!これが世間が大騒ぎする親知らず抜歯か!ヘボいヘボい!恐れる必要なし!」と驕り高ぶっていました。

 

昨年、2本目の親知らずを抜歯しました。これは下顎の親知らずで、歯茎を切り開いてゴリゴリしないと抜けないタイプの親知らずだったため痛みも腫れも酷くて辛かったです。「やっぱりみんなの言うことは正解やった…。親知らず抜歯は辛い…」と認識を改めました。

 

そして残り2本。2本目の抜歯で心が折れトラウマができた私はもう完全に嫌気がさしていたのですが、どちらも歯茎の中で斜めにセッティングされていて、いつか生えかかってきた時に健康な歯との間に虫歯を作ってしまいそうだったのでかかりつけの歯科医に「抜いた方がいいでしょう」と言われていました。

 

この歯科医がすごく優しい方なので困るんですよ。

 

「今日抜かないと死にます!!」と断言してくれたらすんなり抜く気になれるのに、患者さんの意志を尊重しようと献身的になって下さるあまりに脅しめいたことは全く言わず、それどころか私の怯えや怯みを汲んでなるべく「嫌ならやめましょうか?」な方向に持っていって下さるため、一向に勇気が出ずに放置していました。

 

本当は今年の夏に3本目を抜こうと思っていたんです。これまで抜いた2本とも夏に抜きましたし、私は冬に体調が悪くなりがちで夏の方が元気な日が多いので、元気な間に腫れと痛みを耐えぬこうと思っていました。

 

でもねー!2022年と2023年を跨ぐ冬が特別辛かったこともあり、実際夏が来たら体調が比較的いいのが嬉しくて嬉しくて「顔を腫らしてるヒマなんてない!」と思って自由に過しちゃいました。

 

それでもう「秋来たし〜。もうしんどいからええか」とやる気を失っていたのですが、奇跡的に今年は冬もそこまでしんどくなかったので、もう残りの2本とも一気に抜いちゃうことにしました。

 

歯科医に相談したところやはり優しいだけあって1本ずつ抜くことも提案されましたが、私としては2本抜いて一気に腫れや痛みに襲われるよりも「せっかく1本頑張って抜いたのにまだもう1本残っていてまた同じことをしないといけない」という状態になる方が恐怖が強かったので「いえ!2本一気にお願いします!」と勇ましく頼みました。

 

でも前回の抜歯が本当に辛くて怖かったので…。ゴリゴリゴリリッ!とされる機械が特に怖かったので「またあれをされるのか…」と思うと不安でした。

 

いざ抜歯が始まるとやはり緊張でカチコチになったのですが、歯科医が下顎をグイ!グイイ!!グイイイイ!と押してくるのが大変気になりました。普段の温和な様子からは打って変わって歌舞伎町のナンパ男ばりの押しの強さで下顎を攻められるので「痛みはありますか?」と聞かれたタイミングで「すみません…。顎が外れそうです。顎関節症なので…」と自己申告してみました。

 

すると隣にいらっしゃった助手の方が優しい声で励ましてくれました。

 

「外れたら入れてもらいましょうね〜☺️」

 

…。

 

いや、そんな「扉は開けたら閉めましょう☺️」レベルの話じゃないんだから…!

 

そんな綺麗に片付かんやろ

 

「外れたらすぐ入れれるやん!歯科医おるし!」なんて話ちゃうやろ

 

最初から一度も外さずに施術してや

 

そう考えていたらあまりにも面白くなりすぎてしまって、そこからはもうあっという間でした。優しい声で当たり前のように言われたのがより一層シュールで、頭の中で「いや笑 外れたら入れたらええねんとかそんな話ちゃうやろ笑」とぐるぐる考えていたら体感的にすぐに抜歯が済んでしまいました。助手さんに感謝ですね。

 

そんなこんなで割と楽に2本とも抜いてもらえました。経過もよかったですね。腫れや痛みはかなり強かったのですが、鎮痛剤が効いたのでなんとかなりましたし化膿や感染はなかったです。

 

一番辛かったのはマクド欲との戦いですね。

腫れや痛みで口が開かないのですがそんなときに限って朝マックメガマフィンが食べたくなってしまう。

 

あれもこれも食べたいのにあれもこれも食べられなくて、でも諦めきれなくて…。メガマフィンはさすがに諦めましたが、切ったりちぎったり分解したりしていつも通りなんでも食べてしまいました。

 

「食欲すごいな…きっと体が回復を求めてるからだね。今は労わってあげないといけないからなんでも食べよう」と思っていたのですが、腫れも痛みもほぼなくなった現在でもなぜか食欲旺盛なまま変わりません。

 

痛みと腫れが強かった時は「ああ〜やっぱりちょっと辛いなあ。早く治って欲しいなあ。口の中がこんなんじゃなかったときが懐かしく感じられる。当たり前の日々に感謝しないといけないな…」と思い続けていたのに、喉元過ぎれば熱さを忘れる。今では辛かった日々のこともすっかり忘れて顎に対する感謝なく前と同じ日々を過ごしています。

 

いきものにはこうやって辛いことを忘れる機能が備わっているみたいですね。どんなにしんどいことがあっても希望を失う必要はないんだって、喉元過ぎれば熱さも忘れるよって、改めてそう思えて勇気が出ました。

 

【ネタバレ有】ディズニー映画WISH最高!これは"ふつうの人達"の物語

「WISH」は特別なプリンセスが特別なヴィランに抗い特別な人生を勝ち取る物語ではありません。

 

ふつうの人達がふつうの独裁者に疑問を持ち、ふつうに団結し、ふつうに闘う物語です。

 

それは何百年も前、いやきっと何千年も前から人間が繰り返してきたことであり、今の私たちや未来の誰かも挑む必要のあることであり、作中ではごくふつうのことが起こってるだけなんです。

 

この物語を見るにあたって大事なのは「主役が織り成す特別な物語を楽しむモブの鑑賞者」にならないことだと思います。

 

観た後に物語の各シーンを自分の人生や生活に置き換えて考え、自分自身が主役である「私の人生」という物語において自分にできることを実践していくことなのでしょう。

 

ーーーーーーー

 

さあ冒頭に書いた通り、WISHはプリンセス物語ではないんですよ。

 

観始めて一番初めに驚き戸惑ったのは、とにかく何もかもが「ふつう」なことでした。

 

キャラクターの振る舞い方や話し方、動き方、間の取り方など全てが「ふつうの人」なんですよ。

 

ディズニーはプリンセス系や英雄系など色々な話がありますが、大抵どれも主役が主役としての動きをすることが多いように思います。

 

主人公の細かな言動や些細な動きからも特別な優雅さや元気さが表現されていて、モブキャラクターとは一線を画していることがほとんどなように感じますね。モブキャラクターも「ふつう」な感じではなく各々の立場や役割に徹した言動や振る舞い方、動き方をしている感じがします。

 

WISHにはその感覚がなくて、とにかく登場人物全員が全員「ふつう」なんですよ。全員「物語の中の人」ではなく「私の生活の中で出会いうる"その辺の人"」としての振る舞いをしています。

 

私は字幕版で見たので特にそういう印象が強かったです。吹き替えだと声を入れている方々の顔がどうしても頭に浮かんでしまうので、個人的には字幕の方が先入観なく観やすいですね。この作品は字幕で見た方がディズニーが表現したいものが伝わりやすいかもしれません。

 

また物語が展開される場所も何の特別さもありません。この物語の主人公であるアーシャの生活圏である家、街、お城、近所の森などです。

 

この範囲の狭さにも結構驚きました。他のディズニー作品だと、各キャラクターにとっての非日常空間に移動することや沢山の非日常な出会いがあることもストーリーの中に組み込まれていることが多いように思うので、WISHのようにほとんど家の近所や見慣れた土地でしか話が進まず、新しく出会うのも人ではなく星のみというのは新鮮でしたね。

 

更に更に、ストーリーの進み方もキャラクターの心情の描写もとにかく全てが「ふつう」です。

 

ディズニー作品のヴィランって生まれが特殊で最初から特別な何かを継承していたり、一般人の中にはなかなかいないレベルでとにかく強欲で特に理由がなくてもこの世の全てを求めていることが多いと思いますが、WISHの場合は悪役に該当する国王までふつうです。

 

まず彼は自分で建国しているので王位を継承した訳ではありません。また彼が「自分は遺伝によりハンサムだ」と容姿に固執することが滑稽なことだという扱いで表現されており、WISHが生まれ持ったものを特別扱いしない話であることが伺えます。

 

また彼が暴走した理由は「こんなに国のために尽くしてやってるのに国民が自分に素直に従わなくてムカつく。質問すんな」という、ただ単に余裕がなくて器が小さくなってるときのふつうの人の感覚がきっかけになっているんですね。

 

彼は非常に人間らしいんです。人ってすぐに戸惑い迷い自信を失うので、過去のディズニー作品におけるヴィランのように強い意志を持って強欲さや復讐心を維持することすらできないくらい弱いのがふつうの人間なのですが、今回の国王は自身の弱さそのものが支配欲や身勝手さを強めるきっかけになっていて大変人間らしさを感じました。

 

さて、それに抗うアーシャ一行もまたふつうの民衆でしかありません。魔法が使える星がやってくれることはあくまで手伝いであり、アーシャ達がやった事は実質「自分の頭で考えて疑問を持ち、同志と団結し、例え拘束を受けようとも自分達にできることに向き合い続けて大衆の力で身勝手な政治と独裁的な権力者に抗った」ことなんです。

 

これは何も特別な物語ではないんですよ。そんなこと人間というものが誕生してから何百回何千回と繰り返されてきたことだと思うんです。今の時代にも必要だし、未来もやり続ける必要があることだと思います。

 

国王を倒した後に、国王と共に建国のために尽くしてきた王妃がトップに立ち、空を飛ぶことが夢である人と空を飛ぶ機械を作ることが夢である人を繋げて応援するシーンがあります。

 

ここもすごく人間らしいですよね。人の技術は誰かの夢を叶えるし、誰かの夢は人が技術を発展させる大きなモチベーションになります。人が支えあって新しいことを叶えていく姿は、これまで何千年も人間が繰り返してきたことだと思います。

 

この物語における「魔法」は「ファンタジーの世界における魔法」を指しているわけではないように思います。

 

比喩や補助としてファンタスティックな魔法が出てくる場面はありますが、一番描きたかったのはふつうの人が誰しも潜在的に持っている魔法の種なのではないでしょうか。自分の人生を本気で生きたら魔法のようなことができるんだよ。あなたも自分の世界で魔法を使ってみてよ。そう言いたいのがWISHなんだと思います。

 

アーシャ達はふつうでした。だから誰しもアーシャのように勇敢になれるし、変化を起こせるし、自分の幸せも他人の幸せも実現できるということなのではないでしょうか。

 

だから私にとっては本当に勇気づけられた特別な作品なんです。

 

「自分の人生の主役は自分なんだ」という感覚を守り続けること、失いかけた夢を取り戻し自分で叶えること。これってシンプルで平凡で「綺麗事だよね」と片付けられそうですが、本気で向き合ったらすごく難しいことなんですよ。

 

そんなことさっさと諦めて「私ではない特別な人」が特別な人生を歩む姿を見たいと思い始めるけれど、そこでどうしても割り切りきれないのが人の弱さですよね。

 

自分で自分を大切に扱えていない分、他者に特別に扱われたい気持ちや「誰かに大切にされている、私ではない特別な人」への複雑な気持ちが募りに募って、それを人への不満や恨みにまで発展させるのが人間です。

 

みんなが自分で自分を大切に扱ったら、魔法だって使えるし心が満たされるし、この世界にはもっと自由で、楽しいものが沢山できて、幸せで平和になると思うんです。

 

私はそういう世界を選びたいと思って、自分ができることに真面目に取り組み一歩一歩踏みしめているところだったので、「WISHの物語が必要なんだ」と思ってコツコツ制作して世界に届けた人達がいることに対して「自分の仲間がいるみたいだ」と感じられてなんだか感動しちゃいました。

 

ーーーーーーー

 

ディズニーに対して「特別なプリンセスや特別な英雄を見せることで子供たちに夢とわくわくを与える存在」と認識していたら、昨今のディズニーの方針には戸惑うかもしれません。

 

一方で、私の中のディズニー像はずっと「人々が各自の夢を大切にしながら自分の人生を生きるにあたって必要なものは何なのか」という疑問向き合い、悩み、試行錯誤を続けている存在なんですよね。

 

以前公開された実写版「リトルマーメイド」では、キャラクターの容姿の特徴がアニメ版と異なることから様々な意見が湧き上がりましたが、私としては「ディズニーはアニメ版で描ききれなかったものも新たに描きたかったんじゃないだろうか。アニメ版を愛したい人はアニメ版を愛し、実写版を愛したい人は実写版を愛したらいいんじゃないか」と思っていました。

 

私が実写版のポジティブな感想をネットに書いて「実写版の存在はアニメ版を貶めるものではない。自分の好きな作品を愛せばいい」といった旨のことを書いたら、全然知らないし関わったことがない人から「ディズニーストアに行ったら実写版のグッズが大々的に置かれていてアニメ版のグッズは隅に追いやられていて悲しかった。他のお客さんとして来ていた子供も泣いていた」という愚痴を直接返信されたことがあるんです。

 

ニュアンス的に「いや、アニメ版のファンは蔑ろにされていますが?」と伝えたかったのかなと感じました。

 

私はディズニーストアの話はしていませんでしたし、どのような小売店でも新作グッズと元々あるグッズとで陳列方法が異なるものかと思いますので「あ、そうなんですか…」と思ったんですけど、この出来事はとても強い印象を残しました。

 

愚痴をこぼしてきた人の「私はアニメ版が好きなんだ」という気持ちを蔑ろにしているのは一体誰なのでしょうか?

 

ディズニーが蔑ろにしているんでしょうか?ディズニーストアですか?それとも私が蔑ろにしているのですか?

 

いいえ、違いますよね。

 

自分の大切な気持ちを「意見が違う人への反論材料」として他人にぶつける選択をしているのは、他でもなくその人自身ですよね。

 

もっと大切に守ってあげたらいいのに。

 

「私はアニメ版が好きなんです」と胸を張って自分のフィールドで言ったらいいじゃないですか。会ったことも話したこともない私に言わなくてもいいですし、他の誰かを説得できないと主張しちゃいけない訳ではないんですよ。最初からあなたは自由な存在なのですから、自信を持って好きなものを愛したらいいじゃないですか。

 

私に愚痴をこぼされても「辛かったね、それは悲しいね」とは言ってあげられないんですよ。私はそんなふうに思っていないし、その人のメンタルケアをする義理もないからです。意見が異なる他の人に自分の気持ちをぶつけたら相手から言葉を雑に扱われて余計に傷つく可能性があると思いますので、伝える相手と場を選んだ方がいいでしょう。

 

そして、自分で自分に対して「なんだか寂しいな…。ストア側はそんなつもりはないかもしれないけど、今の私はアニメ版が蔑ろにされてるように感じるよ。なんか色々辛いんだもん…。はあ〜美味しいものでも食べて元気を出すか」と優しく受け止めてあげることはいつでもどこでも実践できますよね。

 

ディズニーストアでがっかりしたのなら、ストアに「せっかく実写版が公開されているので、実写版グッズの隣にアニメ版のグッズも並べて双方を主役としてディスプレイするのはどうでしょうか?どちらの作品ファンにとっても楽しめると思います」と提案するのもひとつの手だと思います。

 

例えば実写版しか知らない小さな子供が隣に並べられたアニメ版のグッズを見て「こっちも好き!」と思えたらみんなが嬉しくなれますよね。

そういうことならネットのお問い合わせ窓口にパパッと書けるんじゃないかと思いますし、ディズニーストアなら前向きに聞いてくれると思います。

 

世界のどこかにいる誰かが「ディズニー作品の登場人物は多様であってほしい」と思ったから願いが叶って今があります。

 

その人達だけじゃなく、世の中を生きる全員に、みんなに「こうなってほしいのにな」を叶える力があるんですよ。

 

私利私欲のために他人を動かすのはよくないとしても「こうしたら私は楽しいし他にも楽しいと感じる人がいるだろう」という話をして他者に協力を依頼するのは夢があることじゃないですか。

 

ディズニープリンセス達はみんなそうやって夢を叶えてきましたよね。やりたいことや自分の望みを周りに提案し協力してもらって前進してきたと思います。

 

プリンセス達は「あなたの理想通りの姿かたちをした美しい私をただ傍観していなさい」と言っていましたか?

 

「私はこうやって前進したよ。あなたも一緒に頑張ろう!」って、

 

本当はそう言ってくれていたんじゃないでしょうか。

 

私にとってのディズニーはそういう存在なんです。ディズニーの思う「人々に夢を与えたい」における「夢」とは「寝ている時にしか見られない手の届かない幻想」ではなく「各々が自分の望むものを叶えるために必要なモチベーション」を指しているのではないかと考えています。

 

ディズニーがそういう方針で試行錯誤し作品を作り続けているとしたら、物語のかたちも登場人物の姿も多様であり続けるものだと思います。その中から各々が今の自分に近いものや目標とできるものを選んで楽しみ、親近感が湧いて励まされたり勇気を持ったりできたらそれでいいように思います。

 

ーーーーーー

 

私が最初に愛したディズニー作品はシンデレラとライオンキングでした。

 

1歳か2歳くらいのときに親からビデオを買ってもらってそこから何度も何度も観ました。どちらも本当に大好きな物語だったけれど、終わり方に関してはシンデレラには納得できなかったし、ライオンキングの方が好きだったんです。

 

シンデレラが王子様と結婚してめでたしめでたしというのが、当時まだ幼児だった私にとっては意味が分からなかったんですよ。だって王子はシンデレラのことをほとんど何も知らないですよね。ただ一晩踊っただけじゃないですか。

 

シンデレラは小動物にも愛を与え守ってあげられる優しさと強さがあるのに、王子はそこまで理解した上で結婚してるのか?って思ったんです。

 

シンデレラが意地悪な継母のもとから離れるのが幸せなのは確かだろうけれど、王子がシンデレラのいいところをきちんと理解してそれが活かせるような自由な生活をさせてくれるのか、変なルールを作って「僕のお姫様」として生きることを求めないか気になりました。結婚生活の想像が浮かびにくいくらい性格の描写が少ない男性と結婚することがハッピーエンド扱いになることに共感できませんでした。

 

一方ライオンキングはシンバが迷い悩みながらも「国を守りたい」と自分で思ってそれを立派に果たすのが結末なんです。

 

シンバは幼なじみで許嫁ポジションのナラとパートナー関係を結ぶことになりますが、シンバとナラはお互いのことを信頼や理解し合っていることがしっかり描写されていますし、性格の相性も良くてお互いにないものを補い合えそうなので、幼児の私にとっては「ええやんええやん」と感じました。

 

じゃあライオンキングが物語として最高なのかというと、そうとも言いきれないのがまたディズニーを好きになってしまうポイントなんですよね。

 

ライオンキングでは人類の枠を超えた生物そのものの命の連鎖の話を描きたかったのだと思いますが、その割には大変人間的で動物の生態とは乖離した王位継承の話が入ってきます。また人間世界の中に存在する多様性も描きたかったのか、アフリカが舞台なのに禅といったアジア圏の文化も入ってきたりして、若干のしっちゃかめっちゃか感がありました。

 

「多分こういうことをやりたかったんだろうけど完璧にはできてない」が伺えるのがライオンキングを好きなポイントのひとつでもあるんです。

 

そこからもう30年近く経ってることもあり、ディズニーはあれこれ試行錯誤して過去の自分達に作れなかったものをどんどん作っていっている気がします。

 

新しい作品を観て「ライオンキングが叶えきれなかったことがこの作品で叶えられているみたいだ」と感じる時がありますし、他の作品についてもそういった相関があるのではないかと思います。

 

私がディズニー作品を愛する理由は、完璧な作品なんてひとつもなくて、どれも「人に夢を与えたい」という大きな夢に向かって突き進む人達のこだわりと葛藤を感じさせるからだと思います。だからどれもそれぞれに愛せるし、変化も成長も面白く感じるのだと思います。

 

常に「これが本当の愛なのか?」や「これが本当に人に夢を与える物語なのか?」というところに向き合い続け、変化し続けているのがディズニーなのではないでしょうか。

 

ディズニーが歩みを進め続けられるのは「より本質的なものを追求したい」という意志があるからなんじゃないかと思うんです。

 

過去の作品を否定したいのではなく、過去の作品に自信があり「そういう方向性の作品はもうしっかり作ってこられた」という自負があるから未踏の地に進み続けるのだと思います。

 

だからディズニーはこれからも変化し続けるし、人々を飽きさせることもないのでしょう。

 

ーーーーーーー

 

最後に!

 

WISHは障害を持つキャラクターがごく普通に出てくるところも好きだなと思いました。

 

私もごく普通の障害者なのですが、外見からは分からないので自己申告しないと周囲に伝わらないんですよ。障害者を特殊な存在だと認識している方も中にはいるとは思いますが、この世界には健常者が思っているよりずっと沢山の障害者が社会に混ざり溶け込んで平凡に暮らしていると思います。

 

私にとっての「当たり前」は、感動的な障害克服演出もなくふつうの障害者がふつうに健常者と暮らしていることなんですよね。障害者がひとりもいない世界の方が「ふつうではない状態」に思えるんです。

 

WISHのようなふつうの物語において、ふつうのことがふつうに表現されていたのは納得感があり好印象が残りました。

 

 

佐川美術館に行ってきました

 

滋賀県の佐川美術館に行ってきました!

 

佐川美術館といえば「お水ぅ!」という感じの外観で有名ですね。


f:id:yujup1:20231220180923j:image

 

写真があまりにも下手で肝心のお水の良さが全く感じられませんが、とにかくお水に囲まれた建物の中で美術展が見られる綺麗なスポットです。

 

ここはチケットが予約制なんですけど、このお水潤沢スポットに来る前に通るゲートでチケットを引き換えるんですよね。だからお金を払わないと水すら見れません。

 

これは便利なシステムだなあと思いました。他の美術館の場合、館内に入るのは自由で展示室に入るためにチケットを購入するシステムになっていることが多いのですが、佐川美術館のように外観が特徴的で観光スポットになりうる建物の場合は「ここで写真を撮る」ことそのものが価値ある体験になりうりますので、取ったったらええと思います。お金。

 

またお客さんからしても、チケット1枚あれは全ての展示を見られるので便利ですね。一度ゲート内に入ったらうっかりチケットをなくしても問題ないのが嬉しいです。

 

館内にはカフェもあるので1回入場したら結構ゆっくりできそうなのもよかったです。ドリンクやデザートに加え、そば、サンドイッチ、今なら期間限定のうどんも食べられます。

 

「カフェやのにうどんとそば?どんなラインナップやねん」と最初は思いました。でもお昼にうどんを頼んだらそこそこな早さで提供されたので、これは調理時間が少なくて済むメンバーが選出されているのかもしれませんね。土日のお昼でも混雑しにくいように工夫されているのかもしれません。

 

さてこの「建物の外を囲うお水」ですが、写真で見ていた時は「フーン、水やん」としか思っていなかったんですよ。

 

琵琶湖というものがありますからね滋賀県は。今更水だけでアッと驚くことはありません。それなのに実際見に行くとすごくよかったですね。

 

まず藻とかゴミとか浮いてなくてかなり綺麗なお水だったんですよ。しかも何か装置が入っているのか、常に細かく波立っていて美しい表情を楽しむことができました。

 

私が行った時は天気も良かったので、水面に光が反射してキラキラしてすごく綺麗でした。


f:id:yujup1:20231220181700j:image

 

この写真ではあんまり魅力伝わりませんが、とにかく生で見た方がいいです。

もっと広くて「水ぅ!」を楽しめるエリアが沢山あったのですが、見るのに夢中で写真に残せませんでした。「忘れられない景色はどうせ頭に残るから記録する必要がない」と思ってしまうずぼらーまんなので…。

 

そしてこの建物は、水を直接見て楽しむだけでなく、建物の中からも水と光が織り成す美しさを楽しむことができます。


f:id:yujup1:20231220181919j:image
f:id:yujup1:20231220181931j:image

これねー!これこそ生で見てほしい!!

 

実物は水面の動きに合わせて壁に映った光がチラチラ動いて本当に綺麗なんですよ!静かな館内で光だけがキラキラ動いてすごくいいんです。また生で見たいなーと思ったのであえて動画には残しませんでした。頑張れ未来の自分、見に行け未来の自分。

 

今ちょうど大阪で「光」をテーマにしたテート美術館展が開かれていますが、つい「もうこれで十分やん!光にしろ何にしろ実物が一番サイコーや!」と思ってしまいました(が、結局行きましたのでその感想も書くと思います)。

 

佐川美術館は"ていねいな人"が作った美術展という感じがしますね。洗練されている点が多くてすごく楽しかったです。

 

さて肝心の展示内容についてですが、まず一番良かったのが


f:id:yujup1:20231220182305j:image

こちらの展示でした。

 

展示の仕方が、ありえん・オシャ・おしゃんてぃーでした。

 

ここは写真NGだったので私の下手な写真すら載せることができず実際に見るしかないんですが、光の使い方、空間の暗さの活かし方、什器のチョイスなどが本当によかったです。

 

作品ひとつひとつの解説書きは特にないのですが「見りゃわかるッ!この魅力ッ!!」と説得力を感じるような、作品の持つ力強さと静けさと自然と調和するような美しさがググッと押し出された展示方法で痺れました。

 

佐川美術館は他にもモリモリ展示があります。平山郁夫展、佐藤忠良展、なんや特別な感じの企画展(今回はエッシャー展)ですね。どれもすごくよかったです!

 

平山郁夫展は風景を通じて自然や人の営みや光や空気などが描かれていましたが、絵が飾ってある高さがどれも低めに感じたんですよね。だから「絵画作品を鑑賞している」というよりは、自分もその空間にいるかのように感じられて楽しかったですね。

 

風景を描くのが上手い人はなんでその土地の空気をあんなにうまく表現できるんでしょうか?

 

湿度が高そうだなとかきっと乾燥しているなとか、冷たそうな空気だなとかなんだか暖かそうだなとか、なんでそういう目に見えないものを絵で伝えられるのか全く分かりません。

 

アンコールワットの絵が飾られていたのですが、私もアンコールワットに実際行ったことがあるので「そうそう!ほんまにこういう感じやったわ」と驚きました。

 

アンコールワットを「見る」感覚ではなく、アンコールワットに「いる」感覚を再現しているところに驚きました。シンプルな線や色付けでもその空間をしっかりと再現できるのが信じられないくらいすごいですね。

 

平和の重要性を伝えるために、恨みや憎しみが残る表現ではなく希望を感じられる表現を選択したいという考え方にも「せやなあ〜」と思いました。

 

人は不安を感じるとそれを取り除きたくなる性質がありますし、そのために時には「誰のせいでこうなった?」と誰かや何かを責める思考に偏りがちになってしまうことがあるんですよね。

 

「自分にとって大切なものを守りたい」という純粋な気持ちが、不安によって曇ることで「大切なものを脅かしうるものへの攻撃」になってしまうことがあるんです。だからどんなときでも、頭の中にある不安や怒りや恨みだけでなく、今手元にある光や希望にも目を向けることが大事なように思いますね。

 

「こんな辛い中でもこちらに残っているこの存在を大切にし続けないといけない」という責任感が人の品性や忍耐や寛容さの下支えになる時があるので、失ったものだけを見るのではなくまだ残っているものを大切にする心も平和のためには重要だったりすると思います。

 

佐藤忠良展も面白かったですね。どれも静止している彫刻作品なのに、自分よりずっと躍動感が感じられて「なんかこの作品たちに負けてる気がする…。活き活きと生きるってやっぱ簡単なことじゃないんやな〜」と思いました。

 

色々な作品を見て「私にもこんなふうに『生きてますよォ!』感のある瞬間って存在するのかな?他の人から見た私の姿ってどんな感じなんやろ」と気になりました。

 

私はアイドルが本当に好きなので色々なアイドルを見るんですけど、アイドルの美しさって結局顔が可愛いとかスタイルがいいといった姿かたちそのものが示しているんじゃなくて「人としての活き活き感」に表されてるんですよね。

 

確かにみんな顔が可愛くてスタイルがいいし、ファッションはプロの衣装さんが考えたものでヘアメイクも素敵だけど、でも結局その人を輝かせているのは「表現者として仕事にも自分自身にもファンにも向き合い続けているからこその自信と人間性の輝き」だなって思うんです。

 

だから私も自分にしかない活き活き感を出せるようになりたいなと最近思ってるんですよ。しかしまさか立体作品に先を越されているとは思いませんでした。生きることと活きることは違うんですよね、難しいです。

 

そしてそして、最後にご紹介するのがなんや特別な感じの企画展ことエッシャー展です。

 

これは最初「フーン、だまし絵かあ」とか思ってなくてそこまで期待してなかったんですよ。

 

でも想像よりずっと楽しくてよかったです!あの有名なだまし絵に限らず、エッシャーさんの創作人生において完成させてきた多種多様な作品が飾られていてとてもよかったですね。

 

作品が素晴らしいのはもちろんのこと、その魅力をきちんと伝えられるよう工夫された解説よ数々が本当に分かりやすかったです。

 

エッシャーさんご自身の考え・興味関心とそれらの変遷、当時の周囲の反応・評価、作品そのものの意味や技術的にポイントとなっている部分の解説といった様々な視点から語られていたので痒いところに手が届く内容でした。

 

体験して遊んだりはしゃいだりできるようなコーナーもいくつかありました。年齢問わず誰でも楽しみやすそうでしたね。

 

こんな感じで佐川美術館、丁寧に作り込まれているポイントが盛り沢山でとても楽しかったです!駅から遠くて30分程度バスに乗っていないといけないのでバスが苦手な私にとっては苦痛かなと想像していたのですが、ほのぼのした田畑や鳥さんを眺めながらぼーっとできたので意外に楽しかったです。

 

佐川美術館はこれまでにもよさげな展示をやっているときがちょくちょくあったので、機会があればまた行きたいですね〜。

たのしい京都文化博物館 シュルレアリスムと日本

先日、京都文化博物館の美術展「シュルレアリスム宣言 100年 シュルレアリスムと日本」を見ました!

 

 京都文化博物館に行くこと自体が初めてだったので楽しかったです。本館と別館があって、別館は重要文化財の旧日本銀行京都支店を持ってきたものなので非常に立派な建物なんですよね。

 

周辺を通ることはよくあったので別館の建物の外観の美しさは知っていたのですが、今回初めて見た内装も素敵でわくわくしました。

 

京都文化博物館は確か二階〜五階くらいまで展示スペースがあり、1枚のチケットで何でも見れる出血大サービスシステムでした。

こんなにありがたいことはないと思い存分にウロウロさせてもらいました。私は持病があるので2年使ったiPhoneばりにすぐにエネルギーが切れて疲れてしまうんですけど、休憩スペースも椅子も沢山あって親切設計で満足でした。

 

さてシュルレアリスムの話をしましょう。私はこの世界のありとあらゆるものについての知識がなく、ほとんど何も分からない状況で野生の勘とGoogle検索とともに生きているので、当然シュルレアリスムについても何も分かりません。

 

ただ「なんこれ?この絵からなんも分からんが?」という思いから「制作された方はどのような思いを持ってこの絵を描かれたのかな」ということを知りたくなったんです。

 

真面目に絵を描くことって時間も体力もすごく沢山いるじゃないですか。よっぽどのモチベーションや意志がないと完成させられないですよね。だから絵を見て意味がわからなくてもそこには必ず人の思いや思考があって、私はそれを知りたくてノコノコ見に行ったんです。

 

展示を見た感想として、まず実際に生で見ても何がなんやら分からなかったのですが、とにかく「分からんのになぜかどの絵もすごく美しい」と感じました。

 

どれも本当に素晴らしかったんですよ。意味の分からないところに意味の分からないものが組み合わさって描かれていて、その上「え?これ本当にそれを描いてる?」と感じるようなタイトルがつけられてる絵ばかりに見えたんですけど、それだけ意味が分からないのに「美しい」ということだけはすごくよく伝わるんです。

 

それが本当に感動しました。人は自分が共感や理解できるものに親近感や好感を持つ傾向にあるので、意味が分かるものに高評価をつけたくなるのは普通のことなんです。逆に、人は意味が分からないものに対しては異質さや不気味さを感じて排除したくなるものなんですよね。なのにこの全く意味が分からないシュルレアリスムの絵については心惹かれるものがある。これってすごくないですか?

 

意味が分かってない人でも「美しい」と思えるということはつまり、必要なものが必要な場所に全て描かれていて、同時に不要なものが不要な場所に描かれていることが全くないということなのではないかと思います。

 

配色や構図、配置、モチーフの選択など、どれを取っても「これが正解だ」と説得力を感じさせるものだからこそ、何も共感できなくても(共感できるほど意味が分かっていなくても)その美しさに納得できるのだと思います。

 

シュルレアリスムに正解なんて何もなさそうなので、描く側としてはひとつも指標がないゼロの状態から自分の答えを見つけに迷わないといけないと思うのですが、その過程は自己を理解することや自分を見つめることの連続になると思います。

 

「何を描くべきか?このモチーフほんとにいる?こっちはいらないのかな?色どうする?ここにこれ置くべき?これとこれ混ぜて描いてみたけどアリ?なんか変かな?うーん変かも…なんか全部ダサく見えてきた…これもう…なんかもう嫌になってきた…もうこれ、本当に描かなきゃダメかな…」を経由して、一旦自信を失って、もうこんなことに労力使うのやめよかな…と思うときがあってもおかしくないですよね。

 

だって正解がないんですからね。他者が作った正解があれば「これでいいんだ」や「これはダメだな」と判断しやすいですが、そういう正解がないと迷いに迷いますよね。

 

それで「もう無理だこりゃ〜」と思いながらも、投げることもできずに向き合っているうちに「自分が表現したいのはこれだ」というのが徐々に見つかるのかもしれませんね。だから過不足がないのかもしれません。自分にとって本当に必要なものを必要なだけ描けるレベルまで極めているのかもしれません。

 

シュルレアリスムって見る側からすると結構意味不明ですけど、描く側からすると本当の意味での自由の体験になるのかもしれませんね。自由だからこその迷いや苦しみを味わうので、その人だけが創り出せる真の美しさを残せるのかもしれません。作品が素晴らしいのはもちろんのこと、作品そのもの以上に、創り出す過程に非常に大きな意義があるのかなと感じました。

 

ほんで満足しながら他の階の展示も見ていました。ここの建物は京都の文化や歴史をモリモリ展示しているのですが本当に豊かで素晴らしいですね。

 

日本みたいに自国の文化や歴史や生活を知るきっかけになるものが現物として残っていて、色々研究されていて、丁寧な解説文とともに見やすく展示されてる国って実はそんなに多くないんじゃないかなと思うんです。

 

紛争や戦争などで過去のものが破壊や紛失されていて、集めて研究できる人もなかなかいなくて、展示となるともっと難しいという国や地域は沢山あると思います。

 

過去を知ることができると今を分析する能力が上がりますし、未来をよりよくするためのヒントも掴めます。日本が発展した理由は色々あると思いますが、色々なものが色々な形で継承されたことにより過去のことを何でも知ることができるというのも大きく貢献しているように思います。

 

さて、京都文化博物館五階では何かの写真の大会?(語彙が終わってるな…)の優秀作品などなどの展示もやっていました。ここはチケットなしでも入れました。

 

私は今まで写真という分野にはあまり興味がなかったんです。興味がないものほど見たくなるのが私という人間です。「なんで興味ないのかな?本当に興味ないのかな?見てみないと分かりませんよね?どれ、ノコノコ…」と吸い込まれるように足を運んでしまいます。

 

そしてその習性はよく新しい楽しさを運んでくれるんですよ。ここの写真展も本当によかったです!

 

ここを見て写真の良さを理解しました。この世界の中で誰かが「美しい」と思ったものを共有してもらえるんですね。私が「見たことがあるけれども注目したことはないし美しいと思ったこともない」と思うものに丁寧な眼差しを向けて、美しいものとして優しく切り取る人がいて、その人が「ほら、これも素敵でしょ?」と教えてくれるのが写真なんだなと思いました。

 

ひとりで生きていると毎日世界が同じように見えるけれど、私以外の人は私以外の価値観を持っていて、私がまだ知らない楽しさや幸せや美しさを知っています。それをこの1枚で伝えてくれるんだなと思ったらなんていいことなんだと感じました。

 

人の眼差しを通すから価値があるんですよね。写真には眼差しがあるから魅力的なんでしょう。「写真には興味なかった」と書きつつ私の家には藤原新也さんの写真集「祈り」があるんですが、それも眼差しが好きで買ったんです。

 

写真集の中にあった作品の中で印象に残っているものがあります。藤原さんが電車に乗っていた時にある女子高生集団がいたそうなんですね。その集団は床に座るなどして好き勝手に振舞っていたので、藤原さんは「1回自分の姿を自分で見てみた方がいいだろう」と思い写真に撮って、叱りの意味を込めてすぐに女子高生集団に見せたそうなんです。そしたら「いい写真だ」や「これほしい」といった旨の感想を得たそうなんですね(色々うろ覚えで違っていたらすみません。気になる人は現物をご購入ください)。

 

実際の写真も載っていたんですけど、確かにいい写真でした。「こんな悪い人達がいました!みなさん叩きましょう!」という晒しの目で撮ったわけではなくて、藤原さんの人間に対する愛というか「あんたら、もっと美しくできなきゃ。本当ならそれができるはずだろ。ちょっと1回ありのままを見てみたら?」というような優しさの目が感じられたんです。

 

私が写真展に興味を持っていなかったのは、私にとって写真のイメージが「SNSに載っているような人の心を揺さぶるために作られた写真」だったからなのかもしれません。そこには「あなた達こういうの好きでしょ?」という意図は感じられますが、撮り手の眼差しのあり方や価値観は感じ取りにくいんです。

 

「私はこれに対してこう思いました」というのが伝わるのが創作作品というものなんじゃないかなと思うので、この写真展がきっかけで「写真もやっぱりそういう存在なんだ」と知れて有意義でした。

 

とにかくものすごく楽しかったですね〜京都文化博物館!周辺も雰囲気があって楽しいお店が色々あるのでオススメスポットですね。

館内はゆとりを感じられる展示方法で人がめっちゃ多いというわけでもないので、同行者と感想を話しながら見て回ることもできると思います。ぜひ遊びに行ってみてください。