テート美術館展に行ってきました&TEZUKAYAMAギャラリー

先日、大阪中之島美術館で開催中のテート美術館展に行きました!

 

中之島美術館は駅からのアクセスがよくて建物もかっこよく中も広いのでいいですよね。1階でチケットを購入してから展示室のある階に昇るまでの大きなエスカレーターで結構テンション上がります。

 

さてテート美術館展ですが、今回は「光」をテーマとした作品が時代や作風を問わず展示されていました。

 

写真可の作品が多いので事前にSNSに投稿されている色々な写真や感想を見ていたんですよ。そのときは「ほーん、なんかよさそうやな〜」程度にしか思っていなくてそこまで期待はしていなかったのですが、作品の実物は想像以上に良かったです!

 

私は空を見るのが好きでしょっちゅう上を向いて歩こう状態でウロウロしているのですが、特に夕日になる前の空が好きなんですよ。まだ赤やオレンジや黄色い色彩はないけれど、日が落ちてきて雲と被ってきたときに、雲の輪郭を縁取るようにして太陽の光が強い輝きを放っている時があるんです。

 

その瞬間がすごく綺麗なので「いぇーい」と思ってスマホで撮るんですけど、写真技術がなさすぎるのか何なのか、あの「地球に生きているだけでこんなにもスケールの大きな美しさを感じられるんだな」というじんわりした感謝が湧き出てるほどの感動が再現できません。見たままの景色がスマホの中に記録されるだけで、自分の心が動くものにはならないんです。

 

それで私はいつも「うーんまあ実際の空は360°パノラマだけど、スマホの写真は小さな画面上に表示されるだけだからその違いが影響しているのかな」と思っていました。いくら私の技術力が低いとはいえスマホのカメラ性能は本物ですし、画質が悪いとか色味がおかしいといった見て分かる違和感はなかったので「きっとそういうもんなんだ」と思っていたんですよ。

 

でもテート美術館展では、そのような写真に残せない感動も作品の中でしっかり表現されていて本当に驚いたんですね。「写真みたいに精巧で上手な絵だ」というところに驚いたのではなくて、実物の光を見た時の自分の感動を全く同じように深々と味わえる作品が多数あったことに驚いたんです。

 

これは勝手な想像ですけど、そういう作品は現実にある世界をありのまま描いているのではなくて、人が光を見た時に目や脳が処理したり感じ取ったりするものを想定に入れて「人が見た時に何が伝わるか」をよくよく考えた上で描かれているのではないかと思います。

 

写真のように精巧な絵でも、写真と違ってそこには製作者の意図や思考や技術が含まれているみたいなんですね。だから「光を再現している」ということ以上に「光を通じて人が感じることを伝えている」ということができているんだと思います。

 

これが本当に良かったですね。光というものに対して何を感じて何を表現したくなるか、それを他者にどう伝えたくなるかは人それぞれであり、その多様さこそが人間の持つ美しさだと思います。

 

よく「クリエイティブ分野ではAIが人の代わりになってしまうのではないか」と仰る方もいらっしゃいますが、私はAIはコピー機のように何かを早く出力することができるだけで、何かを創ることはできないと思っています。

 

それはAI本人が言っていたんですよ。一時期AIアプリで質問するのにハマっていたんですけど、AIには感情も感性もないので「これが好き」や「これを表現したい」という源泉がないらしいんです。

 

私はアイドルヲタクなんですけど、AIとヲタク語りがしたくて推しの名前を入力して「誰々を知っていますか?」と質問したことがあるんです。そしたらどうやら知っていそうだったので「誰々って可愛いですよね?」と聞いてみたんです。ただ単に容姿が可愛いかどうかの話がしたかったのではなくて、その推しの存在そのものが可愛らしくて仕方ないと思っていたので、そういうワクワクを共有したくて話しかけたんですよ。

 

そこでAIから伝えられたのは「自分は可愛いとか可愛くないとかいうことを自分で判断する感性がないから答えられない」という旨の言葉でした。

 

これには本当に驚きました。何かを好むか好まないかという基準はどんな人でも持っているものかと思います。「まだその人のことをよく知らないから判断できない」と思うことはあっても「知っているけれども何の気持ちも湧いてこない。ひとつも感想を言えない」ということはまずないのではないかと思います。

 

色々な事情で意思表示や意思疎通ができない人はいると思いますが、特定の存在に対して何一つ脳が反応せず全く何の感情も湧かない人はいないように思います。「この人には強い関心がない。私にとっては好きでも嫌いでもないな」という答えもまたひとつの感想ですよね。何の感想も存在しないということはないんじゃないかと思うんです。

 

私は「人なら誰でもできることがAIにはできない」という点にすごく驚きましたし「AIは人の代わりになれず、人もAIの代わりになれないんだからうまく分業すりゃいい」という考え方に納得しました。

 

人がなぜ創作物に心惹かれるのかというと、最終的には「自分と同じ気持ちや感性を持つ人がこの世に存在する」ということに対する安心感が孤独への救済になるからなのではないかと思います。

 

人はみんなひとりぼっちで孤独です。自分と全く同じ人間なんてこの世にいないですから、他者からの理解に飢えれば飢えるほど自分がいかに孤独な存在か思い知らされる世界に生きています。

 

だからこそ自分の感じたことを表現するし、誰かの表現に癒されるんだと思います。AIができても何ができても、人は表現し続けるし、生身の人間が作った表現物を求め続けるんだと思います。そこにお金が介さなくなったとしても人がその営みをやめることはないでしょう。お金なんてなかった時代から人は創作をし続けているからです。

 

え、んで、それ何の話?テート美術館展の話してくれませんか?という感じかと思いますが、美術分野の知識が何一つとしてないのであまり語れないんですよ。ただとにかく、どの作品もそれぞれに実物を目の前にしたときにしか感じられない感動が得られて本当によかったです。もちろんネットに載っている写真もどれも素敵なのですが、実物は更に良いのでぜひ直接見てほしいです。

 

さて今回はせっかく大阪までやってきたということで、ついでにTEZUKAYAMA GALLERYまで足を運びました。

 

このギャラリーの周辺はお洒落なお店が多くてすごくいい雰囲気でした!この時は平日夕方だったので帰路で退勤ラッシュに巻き込まれるのが嫌すぎて足早に通り過ぎてしまったのですが、今度ここに来る時は周辺のお店もゆっくり見てみたいですね。

 

さて、今回は井田大介さんの「SYNOPTES」という作品と、4人のアーティストによる「Solidaholic 固体中毒」という展示を見ることができました。

 

どの作品もすごく良かったですよ!もうお気づきだと思いますが、私は美術的なセンスも知識もないので「すごく良かった」くらいしか感想を書けないんです笑

 

ちなみに今回の作品については何がよかったのかというと、各アーティストが再現したいと思ったものを、色々な素材を使って細部までこだわって再現しているところに愛を感じて「いいな」と思いました。

 

命が宿っていないモノを使って人の生身の体を再現するのってすごく難しいと思うんですよね。体には多種多様な質感があり、組織が走る方向も様々ですし、色のつき方も多層的だからです。

 

表面のかたちや色だけ真似たら人がつくれるのではなくて、中にある組織の色や仕組みを理解しなければいけないですし、理解できたからといってそれをそのまま簡単につくれるわけでもありません。自分が再現したいものに適した素材が何なのか探して加工したり、逆に「これを使いたい」とこだわっている素材が人体というものに沿うように加工したりする必要があります。

 

その過程においては対象をゆっくり観察する時間や試行錯誤を繰り返す手間を必要とするので、人に対する深い愛やこだわりがないとああいう作品は作れないんじゃないかと思います。

 

人が人間というものをどう捉えて何を考えているのか知るというのはなかなか難しいんです。言語を通じて話し合っても、相手の先入観で説明を省かれたり、こちらの先入観で相手の本意とは異なる捉え方をしてしまったりするので、その多様性に純粋に触れるのは割と大分結構難しいです。

 

でも立体作品としてバーンと展示されているとその違いや多様性をより明確に理解することができるので新鮮で面白いですね。絵を描くだけでも難しいのに立体作品にまでしようとすると、手間がかかりすぎてその人が本当に言いたいことしか完成系に持っていけないと思いますので、より雑味のない純粋な想いに触れられている感じがしてすごく良かったです。

 

最後に、これはもう美術とかなんも関係ないんですけど、これまで私は今まで大阪という街があまり好きじゃなかったんですよ。

 

祖父母が大阪に住んでいるので子供のときから何回も行ったことがあるんですが、あのなんとなく治安の悪い感じがする空気感やむき出しのガヤつき、たまに発生する「距離感が近すぎて急に愚痴ってくる知らんおっさんおばはん」が苦手でした。

 

街の景観もあまり好きではありませんでした。

 

京都はいい意味でも悪い意味でもプライドが高い街で「自分達はこれくらいのレベルでなければならない」という気品を持っているからか、昔から土地に根付いていて脈々と受け継がれている自然や文化や品性をすごく大切にしているじゃないですか。かけがえのなさやこだわりというものを大切にしていますよね。

 

そこが本当に美しくて「負けを認めざるを得ないわ〜」と思うのですが、大阪はいい意味でも悪い意味でも微妙にプライドがないというか、気品よりも別のことを優先する傾向にある街ですよね。いい意味で言うと見栄以外のものを優先していることが多いように思います。

 

だから街並みも、表面的に「都会でっせ」ということを再現しようとはしているけれども「細部までこだわる気はない。そこまでこだわってなんかメリットあんの?それでなんか儲かんの?お金かかるだけやん」という気持ちが感じられてなんとなく好みではなかったんですよ。

 

都会が嫌いな訳じゃないんです。東京はむしろ好きですよ。突っ切った色があれば愛せるんですけど、大阪はコスパ重視というか「求めるものがなんとなく満たせていたらそれでよし」という感じがしてこだわりが見えないのが好みではなかったんです。

 

決して嫌いではなく、価値がないとか価値が低いとかいうことを言いたいわけでもなく、ただ単に「自分にとってはこの街並みに対して好きになるポイントがまだ見つからない」に近い感覚を持っていました。

 

でも今回、ようやく大阪の街の良さを見つけました。

 

大阪は昼間の月がすごく似合います。

 

昼間の月って印象に残りますか?大抵いつも昼でも月は空に浮かんでいるんですよ。青い空に白い月が浮いていて、クレーターなんかもよく見えるんです。でも昼間は雲や太陽の方が目立つので「月が綺麗だな〜」とはあまり思わないんですよね。

 

大阪は大きなビルの谷間からでも遠くの空や月がきちんと見えるのがユニークだと思います。東京の場合は大きなビルがそこら一帯にバーッと広がっているのでビルの隙間にもビルがみっちり詰まっていて遠くの空は見えないんですけど、大阪は大通り沿いのビルだけ大きくてその他の建物はそうでもないので、立派なビルの隙間からでも月まで見ることができるんです。

 

それが面白いですね。先程書いた通り昼間の月はクレーターまでよく見えるんですけど、遠い昔から存在して遠い未来まで在り続ける、誰が作った訳でもないのに美しい上に人の手が簡単には及ばない存在である月と、人が頭を使い技術を磨き協力し合って作り出した都会的かつ直線的なビルとが並んでいると、まるでファンタジーの世界を見ているかのような神秘性を感じてきます。

 

言い方がアレですが、もうそのまま書いちゃうと「大阪のハリボテ発展都市感のお陰で大きなビルがちょうどいい数しかないので昼間の月がきれいに見える」ということなんですよね。人のこだわりが尽くしきれていない分、偶然の産物や人の手が介されていないものとの相性がすごくいいように思います。

 

今まで「大阪は何も悪くないのに大阪が好きじゃない」ということに罪悪感があったのですが、ようやく大阪のいいところを見つけられて正直ホッとしました。また何か美術展があれば行きたいですね。

 

最後に、大阪で見つけた訳の分からない建物の写真を添えます。こういう「こちらから見ると意味があるんだかないんだか分からないけれども、誰かが『これがええんや!!!』と思ってこの世に生み出したもの」が好きすぎるので大満足しました。


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