【ネタバレ有】ディズニー映画WISH最高!これは"ふつうの人達"の物語

「WISH」は特別なプリンセスが特別なヴィランに抗い特別な人生を勝ち取る物語ではありません。

 

ふつうの人達がふつうの独裁者に疑問を持ち、ふつうに団結し、ふつうに闘う物語です。

 

それは何百年も前、いやきっと何千年も前から人間が繰り返してきたことであり、今の私たちや未来の誰かも挑む必要のあることであり、作中ではごくふつうのことが起こってるだけなんです。

 

この物語を見るにあたって大事なのは「主役が織り成す特別な物語を楽しむモブの鑑賞者」にならないことだと思います。

 

観た後に物語の各シーンを自分の人生や生活に置き換えて考え、自分自身が主役である「私の人生」という物語において自分にできることを実践していくことなのでしょう。

 

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さあ冒頭に書いた通り、WISHはプリンセス物語ではないんですよ。

 

観始めて一番初めに驚き戸惑ったのは、とにかく何もかもが「ふつう」なことでした。

 

キャラクターの振る舞い方や話し方、動き方、間の取り方など全てが「ふつうの人」なんですよ。

 

ディズニーはプリンセス系や英雄系など色々な話がありますが、大抵どれも主役が主役としての動きをすることが多いように思います。

 

主人公の細かな言動や些細な動きからも特別な優雅さや元気さが表現されていて、モブキャラクターとは一線を画していることがほとんどなように感じますね。モブキャラクターも「ふつう」な感じではなく各々の立場や役割に徹した言動や振る舞い方、動き方をしている感じがします。

 

WISHにはその感覚がなくて、とにかく登場人物全員が全員「ふつう」なんですよ。全員「物語の中の人」ではなく「私の生活の中で出会いうる"その辺の人"」としての振る舞いをしています。

 

私は字幕版で見たので特にそういう印象が強かったです。吹き替えだと声を入れている方々の顔がどうしても頭に浮かんでしまうので、個人的には字幕の方が先入観なく観やすいですね。この作品は字幕で見た方がディズニーが表現したいものが伝わりやすいかもしれません。

 

また物語が展開される場所も何の特別さもありません。この物語の主人公であるアーシャの生活圏である家、街、お城、近所の森などです。

 

この範囲の狭さにも結構驚きました。他のディズニー作品だと、各キャラクターにとっての非日常空間に移動することや沢山の非日常な出会いがあることもストーリーの中に組み込まれていることが多いように思うので、WISHのようにほとんど家の近所や見慣れた土地でしか話が進まず、新しく出会うのも人ではなく星のみというのは新鮮でしたね。

 

更に更に、ストーリーの進み方もキャラクターの心情の描写もとにかく全てが「ふつう」です。

 

ディズニー作品のヴィランって生まれが特殊で最初から特別な何かを継承していたり、一般人の中にはなかなかいないレベルでとにかく強欲で特に理由がなくてもこの世の全てを求めていることが多いと思いますが、WISHの場合は悪役に該当する国王までふつうです。

 

まず彼は自分で建国しているので王位を継承した訳ではありません。また彼が「自分は遺伝によりハンサムだ」と容姿に固執することが滑稽なことだという扱いで表現されており、WISHが生まれ持ったものを特別扱いしない話であることが伺えます。

 

また彼が暴走した理由は「こんなに国のために尽くしてやってるのに国民が自分に素直に従わなくてムカつく。質問すんな」という、ただ単に余裕がなくて器が小さくなってるときのふつうの人の感覚がきっかけになっているんですね。

 

彼は非常に人間らしいんです。人ってすぐに戸惑い迷い自信を失うので、過去のディズニー作品におけるヴィランのように強い意志を持って強欲さや復讐心を維持することすらできないくらい弱いのがふつうの人間なのですが、今回の国王は自身の弱さそのものが支配欲や身勝手さを強めるきっかけになっていて大変人間らしさを感じました。

 

さて、それに抗うアーシャ一行もまたふつうの民衆でしかありません。魔法が使える星がやってくれることはあくまで手伝いであり、アーシャ達がやった事は実質「自分の頭で考えて疑問を持ち、同志と団結し、例え拘束を受けようとも自分達にできることに向き合い続けて大衆の力で身勝手な政治と独裁的な権力者に抗った」ことなんです。

 

これは何も特別な物語ではないんですよ。そんなこと人間というものが誕生してから何百回何千回と繰り返されてきたことだと思うんです。今の時代にも必要だし、未来もやり続ける必要があることだと思います。

 

国王を倒した後に、国王と共に建国のために尽くしてきた王妃がトップに立ち、空を飛ぶことが夢である人と空を飛ぶ機械を作ることが夢である人を繋げて応援するシーンがあります。

 

ここもすごく人間らしいですよね。人の技術は誰かの夢を叶えるし、誰かの夢は人が技術を発展させる大きなモチベーションになります。人が支えあって新しいことを叶えていく姿は、これまで何千年も人間が繰り返してきたことだと思います。

 

この物語における「魔法」は「ファンタジーの世界における魔法」を指しているわけではないように思います。

 

比喩や補助としてファンタスティックな魔法が出てくる場面はありますが、一番描きたかったのはふつうの人が誰しも潜在的に持っている魔法の種なのではないでしょうか。自分の人生を本気で生きたら魔法のようなことができるんだよ。あなたも自分の世界で魔法を使ってみてよ。そう言いたいのがWISHなんだと思います。

 

アーシャ達はふつうでした。だから誰しもアーシャのように勇敢になれるし、変化を起こせるし、自分の幸せも他人の幸せも実現できるということなのではないでしょうか。

 

だから私にとっては本当に勇気づけられた特別な作品なんです。

 

「自分の人生の主役は自分なんだ」という感覚を守り続けること、失いかけた夢を取り戻し自分で叶えること。これってシンプルで平凡で「綺麗事だよね」と片付けられそうですが、本気で向き合ったらすごく難しいことなんですよ。

 

そんなことさっさと諦めて「私ではない特別な人」が特別な人生を歩む姿を見たいと思い始めるけれど、そこでどうしても割り切りきれないのが人の弱さですよね。

 

自分で自分を大切に扱えていない分、他者に特別に扱われたい気持ちや「誰かに大切にされている、私ではない特別な人」への複雑な気持ちが募りに募って、それを人への不満や恨みにまで発展させるのが人間です。

 

みんなが自分で自分を大切に扱ったら、魔法だって使えるし心が満たされるし、この世界にはもっと自由で、楽しいものが沢山できて、幸せで平和になると思うんです。

 

私はそういう世界を選びたいと思って、自分ができることに真面目に取り組み一歩一歩踏みしめているところだったので、「WISHの物語が必要なんだ」と思ってコツコツ制作して世界に届けた人達がいることに対して「自分の仲間がいるみたいだ」と感じられてなんだか感動しちゃいました。

 

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ディズニーに対して「特別なプリンセスや特別な英雄を見せることで子供たちに夢とわくわくを与える存在」と認識していたら、昨今のディズニーの方針には戸惑うかもしれません。

 

一方で、私の中のディズニー像はずっと「人々が各自の夢を大切にしながら自分の人生を生きるにあたって必要なものは何なのか」という疑問向き合い、悩み、試行錯誤を続けている存在なんですよね。

 

以前公開された実写版「リトルマーメイド」では、キャラクターの容姿の特徴がアニメ版と異なることから様々な意見が湧き上がりましたが、私としては「ディズニーはアニメ版で描ききれなかったものも新たに描きたかったんじゃないだろうか。アニメ版を愛したい人はアニメ版を愛し、実写版を愛したい人は実写版を愛したらいいんじゃないか」と思っていました。

 

私が実写版のポジティブな感想をネットに書いて「実写版の存在はアニメ版を貶めるものではない。自分の好きな作品を愛せばいい」といった旨のことを書いたら、全然知らないし関わったことがない人から「ディズニーストアに行ったら実写版のグッズが大々的に置かれていてアニメ版のグッズは隅に追いやられていて悲しかった。他のお客さんとして来ていた子供も泣いていた」という愚痴を直接返信されたことがあるんです。

 

ニュアンス的に「いや、アニメ版のファンは蔑ろにされていますが?」と伝えたかったのかなと感じました。

 

私はディズニーストアの話はしていませんでしたし、どのような小売店でも新作グッズと元々あるグッズとで陳列方法が異なるものかと思いますので「あ、そうなんですか…」と思ったんですけど、この出来事はとても強い印象を残しました。

 

愚痴をこぼしてきた人の「私はアニメ版が好きなんだ」という気持ちを蔑ろにしているのは一体誰なのでしょうか?

 

ディズニーが蔑ろにしているんでしょうか?ディズニーストアですか?それとも私が蔑ろにしているのですか?

 

いいえ、違いますよね。

 

自分の大切な気持ちを「意見が違う人への反論材料」として他人にぶつける選択をしているのは、他でもなくその人自身ですよね。

 

もっと大切に守ってあげたらいいのに。

 

「私はアニメ版が好きなんです」と胸を張って自分のフィールドで言ったらいいじゃないですか。会ったことも話したこともない私に言わなくてもいいですし、他の誰かを説得できないと主張しちゃいけない訳ではないんですよ。最初からあなたは自由な存在なのですから、自信を持って好きなものを愛したらいいじゃないですか。

 

私に愚痴をこぼされても「辛かったね、それは悲しいね」とは言ってあげられないんですよ。私はそんなふうに思っていないし、その人のメンタルケアをする義理もないからです。意見が異なる他の人に自分の気持ちをぶつけたら相手から言葉を雑に扱われて余計に傷つく可能性があると思いますので、伝える相手と場を選んだ方がいいでしょう。

 

そして、自分で自分に対して「なんだか寂しいな…。ストア側はそんなつもりはないかもしれないけど、今の私はアニメ版が蔑ろにされてるように感じるよ。なんか色々辛いんだもん…。はあ〜美味しいものでも食べて元気を出すか」と優しく受け止めてあげることはいつでもどこでも実践できますよね。

 

ディズニーストアでがっかりしたのなら、ストアに「せっかく実写版が公開されているので、実写版グッズの隣にアニメ版のグッズも並べて双方を主役としてディスプレイするのはどうでしょうか?どちらの作品ファンにとっても楽しめると思います」と提案するのもひとつの手だと思います。

 

例えば実写版しか知らない小さな子供が隣に並べられたアニメ版のグッズを見て「こっちも好き!」と思えたらみんなが嬉しくなれますよね。

そういうことならネットのお問い合わせ窓口にパパッと書けるんじゃないかと思いますし、ディズニーストアなら前向きに聞いてくれると思います。

 

世界のどこかにいる誰かが「ディズニー作品の登場人物は多様であってほしい」と思ったから願いが叶って今があります。

 

その人達だけじゃなく、世の中を生きる全員に、みんなに「こうなってほしいのにな」を叶える力があるんですよ。

 

私利私欲のために他人を動かすのはよくないとしても「こうしたら私は楽しいし他にも楽しいと感じる人がいるだろう」という話をして他者に協力を依頼するのは夢があることじゃないですか。

 

ディズニープリンセス達はみんなそうやって夢を叶えてきましたよね。やりたいことや自分の望みを周りに提案し協力してもらって前進してきたと思います。

 

プリンセス達は「あなたの理想通りの姿かたちをした美しい私をただ傍観していなさい」と言っていましたか?

 

「私はこうやって前進したよ。あなたも一緒に頑張ろう!」って、

 

本当はそう言ってくれていたんじゃないでしょうか。

 

私にとってのディズニーはそういう存在なんです。ディズニーの思う「人々に夢を与えたい」における「夢」とは「寝ている時にしか見られない手の届かない幻想」ではなく「各々が自分の望むものを叶えるために必要なモチベーション」を指しているのではないかと考えています。

 

ディズニーがそういう方針で試行錯誤し作品を作り続けているとしたら、物語のかたちも登場人物の姿も多様であり続けるものだと思います。その中から各々が今の自分に近いものや目標とできるものを選んで楽しみ、親近感が湧いて励まされたり勇気を持ったりできたらそれでいいように思います。

 

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私が最初に愛したディズニー作品はシンデレラとライオンキングでした。

 

1歳か2歳くらいのときに親からビデオを買ってもらってそこから何度も何度も観ました。どちらも本当に大好きな物語だったけれど、終わり方に関してはシンデレラには納得できなかったし、ライオンキングの方が好きだったんです。

 

シンデレラが王子様と結婚してめでたしめでたしというのが、当時まだ幼児だった私にとっては意味が分からなかったんですよ。だって王子はシンデレラのことをほとんど何も知らないですよね。ただ一晩踊っただけじゃないですか。

 

シンデレラは小動物にも愛を与え守ってあげられる優しさと強さがあるのに、王子はそこまで理解した上で結婚してるのか?って思ったんです。

 

シンデレラが意地悪な継母のもとから離れるのが幸せなのは確かだろうけれど、王子がシンデレラのいいところをきちんと理解してそれが活かせるような自由な生活をさせてくれるのか、変なルールを作って「僕のお姫様」として生きることを求めないか気になりました。結婚生活の想像が浮かびにくいくらい性格の描写が少ない男性と結婚することがハッピーエンド扱いになることに共感できませんでした。

 

一方ライオンキングはシンバが迷い悩みながらも「国を守りたい」と自分で思ってそれを立派に果たすのが結末なんです。

 

シンバは幼なじみで許嫁ポジションのナラとパートナー関係を結ぶことになりますが、シンバとナラはお互いのことを信頼や理解し合っていることがしっかり描写されていますし、性格の相性も良くてお互いにないものを補い合えそうなので、幼児の私にとっては「ええやんええやん」と感じました。

 

じゃあライオンキングが物語として最高なのかというと、そうとも言いきれないのがまたディズニーを好きになってしまうポイントなんですよね。

 

ライオンキングでは人類の枠を超えた生物そのものの命の連鎖の話を描きたかったのだと思いますが、その割には大変人間的で動物の生態とは乖離した王位継承の話が入ってきます。また人間世界の中に存在する多様性も描きたかったのか、アフリカが舞台なのに禅といったアジア圏の文化も入ってきたりして、若干のしっちゃかめっちゃか感がありました。

 

「多分こういうことをやりたかったんだろうけど完璧にはできてない」が伺えるのがライオンキングを好きなポイントのひとつでもあるんです。

 

そこからもう30年近く経ってることもあり、ディズニーはあれこれ試行錯誤して過去の自分達に作れなかったものをどんどん作っていっている気がします。

 

新しい作品を観て「ライオンキングが叶えきれなかったことがこの作品で叶えられているみたいだ」と感じる時がありますし、他の作品についてもそういった相関があるのではないかと思います。

 

私がディズニー作品を愛する理由は、完璧な作品なんてひとつもなくて、どれも「人に夢を与えたい」という大きな夢に向かって突き進む人達のこだわりと葛藤を感じさせるからだと思います。だからどれもそれぞれに愛せるし、変化も成長も面白く感じるのだと思います。

 

常に「これが本当の愛なのか?」や「これが本当に人に夢を与える物語なのか?」というところに向き合い続け、変化し続けているのがディズニーなのではないでしょうか。

 

ディズニーが歩みを進め続けられるのは「より本質的なものを追求したい」という意志があるからなんじゃないかと思うんです。

 

過去の作品を否定したいのではなく、過去の作品に自信があり「そういう方向性の作品はもうしっかり作ってこられた」という自負があるから未踏の地に進み続けるのだと思います。

 

だからディズニーはこれからも変化し続けるし、人々を飽きさせることもないのでしょう。

 

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最後に!

 

WISHは障害を持つキャラクターがごく普通に出てくるところも好きだなと思いました。

 

私もごく普通の障害者なのですが、外見からは分からないので自己申告しないと周囲に伝わらないんですよ。障害者を特殊な存在だと認識している方も中にはいるとは思いますが、この世界には健常者が思っているよりずっと沢山の障害者が社会に混ざり溶け込んで平凡に暮らしていると思います。

 

私にとっての「当たり前」は、感動的な障害克服演出もなくふつうの障害者がふつうに健常者と暮らしていることなんですよね。障害者がひとりもいない世界の方が「ふつうではない状態」に思えるんです。

 

WISHのようなふつうの物語において、ふつうのことがふつうに表現されていたのは納得感があり好印象が残りました。