「沢山のふつうの中に一筋のこだわりがある」が一番人を幸せで満たしてくれるのかも

「ふつう」という言葉に対して何をイメージしますか?

 

ふつうには特別感がないから嫌とか、いやいやふつうの幸せがいいんだとか、人それぞれ色んな意見があると思います。

 

私は「ふつうのことやふつうのもの自体には名前の通り特別な役割がない。しかし沢山の"ふつう"が守られ維持されている状態に、ひとつだけその人のこだわりを満たすものがあれば、ふつうへの感謝や安心感を満喫しつつこだわりを満たしてくれるものへの愛情や満足感も湧いて、幸せMAXになる」と思っています。

 

「ふつうは特別感がないから嫌」も「ふつうの幸せがいい」も、どのような意見もきっと実は対立してないと思うんですよ。

 

身の回りのものや存在のどれもがふつうであり平均であり、他者が考えた「大体こういうもんやろ」でぱんぱんになっていて、そこに「自分にとってはこれが大切なんだ」と実感させ愛させてくれるものがないと満たされている感じがしないでしょう。その人のこだわりや愛の持って行き場がないからです。

 

一方で、全部が全部誰かにとっての特別さや自分にとってのこだわりによって選択されていると息が詰まりますよね。ふつうのものが与えてくれるふつうのリラックス感もほしいでしょう。なんの意味付けもせずこの世にただ生きているだけの時間もほしいのが人間だと思います。

 

それで人は無意識のうちに「自分にとっては何が必要なのか」を探求していき、自分にとって本当に必要で丁寧に愛し続けられるものだけにこだわり、あとはふつうを守ることに落ち着き、ようやく「今、ここ」に満足感を得て余裕を持って生きられるようになるのかもしれません。

 

ふつうも特別も両方あるから両方から幸せを楽しむことができるのだと思います。ただ、ふつうと特別がその人にとってのどこをカバーしているかが大事であり、その人にとってどうでもいいところが特別だったとしても持て余してしまうし、その人にとって大事なところがふつうすぎると満たされないのだと思います。

 

本当は特別なところはほんの1箇所だけでもいいのだけれど、「これだけあればそれでいい」という感覚はその人が「自分にとってはここが大事なんだ」ということを自分で見つけて、その部分におけるその人らしい特別さを自分で守れるようになって初めて湧くものなんだと思います。

 

だから他人や自分が何かを渇望し悩む姿に不安を持たなくてもいいんです。そういう混沌を経由するからこそその人だけの答えに行き着けるし、行き着いたあとはびっくりするぐらい気楽で幸せな日々が待っています。

 

悩んでいるのは辛い。渇望しているのは苦しい。でもそういう難しい思索に立ち向かっていけるのが人間のいいところだから、そういう状態にある他人や自分を否定したり「早く抜け出せないといけないんだ」と焦らせたりする必要はないと思います。

 

地球が誕生してからこれまで莫大な数の人間が誕生し亡くなっていきましたが、その中に全く同じ容姿の特徴をした人が2人も3人もいないのと同じで、何にこだわることが大事で、どういうふつうに囲まれたいのかといった組み合わせはびっくりするくらい多様です。

 

私たちはいつも競争社会や貨幣経済で少ない勝ち道を奪い合っているように思いますが、本当に大切な「その人にとってのこだわりを満たしてくれるもの」は、実は「かなり多様で放っておいてもばらけるので、言うほど奪い合いする必要がないのではないか」とも思います。