たのしい京都文化博物館 シュルレアリスムと日本

先日、京都文化博物館の美術展「シュルレアリスム宣言 100年 シュルレアリスムと日本」を見ました!

 

 京都文化博物館に行くこと自体が初めてだったので楽しかったです。本館と別館があって、別館は重要文化財の旧日本銀行京都支店を持ってきたものなので非常に立派な建物なんですよね。

 

周辺を通ることはよくあったので別館の建物の外観の美しさは知っていたのですが、今回初めて見た内装も素敵でわくわくしました。

 

京都文化博物館は確か二階〜五階くらいまで展示スペースがあり、1枚のチケットで何でも見れる出血大サービスシステムでした。

こんなにありがたいことはないと思い存分にウロウロさせてもらいました。私は持病があるので2年使ったiPhoneばりにすぐにエネルギーが切れて疲れてしまうんですけど、休憩スペースも椅子も沢山あって親切設計で満足でした。

 

さてシュルレアリスムの話をしましょう。私はこの世界のありとあらゆるものについての知識がなく、ほとんど何も分からない状況で野生の勘とGoogle検索とともに生きているので、当然シュルレアリスムについても何も分かりません。

 

ただ「なんこれ?この絵からなんも分からんが?」という思いから「制作された方はどのような思いを持ってこの絵を描かれたのかな」ということを知りたくなったんです。

 

真面目に絵を描くことって時間も体力もすごく沢山いるじゃないですか。よっぽどのモチベーションや意志がないと完成させられないですよね。だから絵を見て意味がわからなくてもそこには必ず人の思いや思考があって、私はそれを知りたくてノコノコ見に行ったんです。

 

展示を見た感想として、まず実際に生で見ても何がなんやら分からなかったのですが、とにかく「分からんのになぜかどの絵もすごく美しい」と感じました。

 

どれも本当に素晴らしかったんですよ。意味の分からないところに意味の分からないものが組み合わさって描かれていて、その上「え?これ本当にそれを描いてる?」と感じるようなタイトルがつけられてる絵ばかりに見えたんですけど、それだけ意味が分からないのに「美しい」ということだけはすごくよく伝わるんです。

 

それが本当に感動しました。人は自分が共感や理解できるものに親近感や好感を持つ傾向にあるので、意味が分かるものに高評価をつけたくなるのは普通のことなんです。逆に、人は意味が分からないものに対しては異質さや不気味さを感じて排除したくなるものなんですよね。なのにこの全く意味が分からないシュルレアリスムの絵については心惹かれるものがある。これってすごくないですか?

 

意味が分かってない人でも「美しい」と思えるということはつまり、必要なものが必要な場所に全て描かれていて、同時に不要なものが不要な場所に描かれていることが全くないということなのではないかと思います。

 

配色や構図、配置、モチーフの選択など、どれを取っても「これが正解だ」と説得力を感じさせるものだからこそ、何も共感できなくても(共感できるほど意味が分かっていなくても)その美しさに納得できるのだと思います。

 

シュルレアリスムに正解なんて何もなさそうなので、描く側としてはひとつも指標がないゼロの状態から自分の答えを見つけに迷わないといけないと思うのですが、その過程は自己を理解することや自分を見つめることの連続になると思います。

 

「何を描くべきか?このモチーフほんとにいる?こっちはいらないのかな?色どうする?ここにこれ置くべき?これとこれ混ぜて描いてみたけどアリ?なんか変かな?うーん変かも…なんか全部ダサく見えてきた…これもう…なんかもう嫌になってきた…もうこれ、本当に描かなきゃダメかな…」を経由して、一旦自信を失って、もうこんなことに労力使うのやめよかな…と思うときがあってもおかしくないですよね。

 

だって正解がないんですからね。他者が作った正解があれば「これでいいんだ」や「これはダメだな」と判断しやすいですが、そういう正解がないと迷いに迷いますよね。

 

それで「もう無理だこりゃ〜」と思いながらも、投げることもできずに向き合っているうちに「自分が表現したいのはこれだ」というのが徐々に見つかるのかもしれませんね。だから過不足がないのかもしれません。自分にとって本当に必要なものを必要なだけ描けるレベルまで極めているのかもしれません。

 

シュルレアリスムって見る側からすると結構意味不明ですけど、描く側からすると本当の意味での自由の体験になるのかもしれませんね。自由だからこその迷いや苦しみを味わうので、その人だけが創り出せる真の美しさを残せるのかもしれません。作品が素晴らしいのはもちろんのこと、作品そのもの以上に、創り出す過程に非常に大きな意義があるのかなと感じました。

 

ほんで満足しながら他の階の展示も見ていました。ここの建物は京都の文化や歴史をモリモリ展示しているのですが本当に豊かで素晴らしいですね。

 

日本みたいに自国の文化や歴史や生活を知るきっかけになるものが現物として残っていて、色々研究されていて、丁寧な解説文とともに見やすく展示されてる国って実はそんなに多くないんじゃないかなと思うんです。

 

紛争や戦争などで過去のものが破壊や紛失されていて、集めて研究できる人もなかなかいなくて、展示となるともっと難しいという国や地域は沢山あると思います。

 

過去を知ることができると今を分析する能力が上がりますし、未来をよりよくするためのヒントも掴めます。日本が発展した理由は色々あると思いますが、色々なものが色々な形で継承されたことにより過去のことを何でも知ることができるというのも大きく貢献しているように思います。

 

さて、京都文化博物館五階では何かの写真の大会?(語彙が終わってるな…)の優秀作品などなどの展示もやっていました。ここはチケットなしでも入れました。

 

私は今まで写真という分野にはあまり興味がなかったんです。興味がないものほど見たくなるのが私という人間です。「なんで興味ないのかな?本当に興味ないのかな?見てみないと分かりませんよね?どれ、ノコノコ…」と吸い込まれるように足を運んでしまいます。

 

そしてその習性はよく新しい楽しさを運んでくれるんですよ。ここの写真展も本当によかったです!

 

ここを見て写真の良さを理解しました。この世界の中で誰かが「美しい」と思ったものを共有してもらえるんですね。私が「見たことがあるけれども注目したことはないし美しいと思ったこともない」と思うものに丁寧な眼差しを向けて、美しいものとして優しく切り取る人がいて、その人が「ほら、これも素敵でしょ?」と教えてくれるのが写真なんだなと思いました。

 

ひとりで生きていると毎日世界が同じように見えるけれど、私以外の人は私以外の価値観を持っていて、私がまだ知らない楽しさや幸せや美しさを知っています。それをこの1枚で伝えてくれるんだなと思ったらなんていいことなんだと感じました。

 

人の眼差しを通すから価値があるんですよね。写真には眼差しがあるから魅力的なんでしょう。「写真には興味なかった」と書きつつ私の家には藤原新也さんの写真集「祈り」があるんですが、それも眼差しが好きで買ったんです。

 

写真集の中にあった作品の中で印象に残っているものがあります。藤原さんが電車に乗っていた時にある女子高生集団がいたそうなんですね。その集団は床に座るなどして好き勝手に振舞っていたので、藤原さんは「1回自分の姿を自分で見てみた方がいいだろう」と思い写真に撮って、叱りの意味を込めてすぐに女子高生集団に見せたそうなんです。そしたら「いい写真だ」や「これほしい」といった旨の感想を得たそうなんですね(色々うろ覚えで違っていたらすみません。気になる人は現物をご購入ください)。

 

実際の写真も載っていたんですけど、確かにいい写真でした。「こんな悪い人達がいました!みなさん叩きましょう!」という晒しの目で撮ったわけではなくて、藤原さんの人間に対する愛というか「あんたら、もっと美しくできなきゃ。本当ならそれができるはずだろ。ちょっと1回ありのままを見てみたら?」というような優しさの目が感じられたんです。

 

私が写真展に興味を持っていなかったのは、私にとって写真のイメージが「SNSに載っているような人の心を揺さぶるために作られた写真」だったからなのかもしれません。そこには「あなた達こういうの好きでしょ?」という意図は感じられますが、撮り手の眼差しのあり方や価値観は感じ取りにくいんです。

 

「私はこれに対してこう思いました」というのが伝わるのが創作作品というものなんじゃないかなと思うので、この写真展がきっかけで「写真もやっぱりそういう存在なんだ」と知れて有意義でした。

 

とにかくものすごく楽しかったですね〜京都文化博物館!周辺も雰囲気があって楽しいお店が色々あるのでオススメスポットですね。

館内はゆとりを感じられる展示方法で人がめっちゃ多いというわけでもないので、同行者と感想を話しながら見て回ることもできると思います。ぜひ遊びに行ってみてください。