隣の空は青い

空を見るのが好きなんです。

 

でも空がどんなに素敵に見える瞬間でも、常に何かの建物や電柱や電線が視界を区切ったり遮ったりしているので、せっかく「今のこの瞬間の空が特にいいな!」と思っても思う存分空のスケールの大きさを楽しむことができないのが不満でした!

 

本当は遮るものが山くらいしかないようなだだっ広い場所で、季節も時間も明日の天気も遠くの空を眺めて測るような生き方をしたかったんです。

 

雲は遠くから見るからこそより美しく見えるのに、今の生活では真上付近の雲くらいしか見えないので毎日不満で不満で仕方ありません。

 

それで今日、京都京セラ美術館のルーブル展に行きました。

 

以前も一度行ったのですが人が多すぎて半分程度見たら疲れてしまったので、今日は残りの半分を見るのと、昔の人々が空をどんな風に描いているのか知りたくて足を運びました。

 

私だったらさぞ自慢げに空や雲を描くだろうと思ったんですよ。

 

今回のルーブル展は「愛」がテーマなのでどの絵画にとっても遠くの風景はメインではないのですが、それでも毎日毎日遠くの空まで眺められる生活をしていたら、空の色も雲の立体感も、そりゃもう「ドッヒャー!こーんなに!綺麗でございますよ〜!」という気持ちを込めて描くと思っていたんです。

 

だから行ってみて失望しました。

 

今回見た作品達にとっては、空なんて取るに足らないもの、何ら特別でないものという扱いのように感じたからです。

 

言われてみれば昔の人々は今より空が広く遠くまで見やすかった分、空を遮られる私の悔しさなんて体感したことがなかったのかもしれません。

 

空はいつも当たり前にそこにあるものであり、遮られることも失うこともないものであり、丁寧に扱っているわけでもぞんざいに扱っているわけでもなく無関心の対象だったのかもしれません。

 

人は自分が持っている真に本質的な宝物については鈍感で無関心なものなのかもしれないです。

 

大体いつも安定的に身近にあっていつでも恩恵を享受できるということは、触れることや活かすことに何も特別感を持てないということでもあります。

 

だから、今日の私は神様から「アンタはアホ言ってないで今の空を見なさいよ😡👊」と言われているような気がしました。

 

私が出会って愛したのは今の空なんです。

 

こんなに美しく惹かれて感じるのは、常に何かに遮られて完全に自分のものにはならない姿に渇望感を抱かせてくれるからでもあるのかもしれません。

 

500年前の空や100年後の空だったら、最初からそこまで好きになっていなかったのかもしれません。

 

私はいつも、空の見え方だけでなく自分自身にも不満や文句がありますし、どこに長所があるのだろうと困っているのですが、大事なものはいつも既に手に入れられているのに目線が別のものばかり見ているから自分の手元に何もないかのように感じてくるのかもしれないです。