人が強靭なメンタルを保てるとき

「世の中にはメンタルが強い人と弱い人が別々の人間として存在している」といった認識をしている方も沢山いらっしゃいますが、

 

私はそう捉えていなくて、どちらかといえば「人にはメンタルの強靭さを発揮できるシチュエーションとそうでないシチュエーションがある」のではないかと考えています。

 

人がメンタルの強靭さを発揮できるシチュエーションとは、目標に対する迷いがないときです。

 

人って迷いにすごく弱いです。迷っている時は努力して物事に打ち込んだり忍耐強さを発揮することができません。 

 

でもそれって生き物として当たり前のことなんですよね。

本来生物たちの世界は一瞬の判断の誤りが文字通り命取りになるわけですから、自分が信じていない道に向かって身体と精神を減らして努力したり忍耐したりすることっておかしいんですよ。

 

「生物は自分の命を守る行動を取る」という前提から考えていくと、まだ迷っているときに変に行動し続けるのは何も本質的とは言えないことなんです。

 

迷いがあるときは立ち止まって迷うのが人間というものです。

 

だからメンタルを強めたい時は、いくら迷ってもいいので自分にとって妥当性のある目標や信じられる指標を見つけることが大切だと思います。

 

現代人に迷いが多くメンタルが弱まりがちなのは、ひとりひとりが考慮に入れられる道の選択肢が広まったからだと言えます。

 

生まれた時点でどこでどんな人生を送るのかある程度決まっていた時代や地域とは異なり、今の日本では自分の生き方を自分で決める必要があるため、迷うのは当たり前ですし、メンタルが弱まる時期があったって全くおかしくないんです。

 

迷う時は迷えばいいんです。いつか目標が定まった時、ブレずに自信を持って前に進める自分になるためは、じっくりと時間をかけてでも自分に合った生き方を模索することが大切です。

 

逆に自分の中で目標や指標が定まっているのであれば、結果が出るまで強いメンタルで努力や忍耐を継続できる可能性があるので、客観的な根拠や周りを説得できる妥当性がなくても進む価値は十分にあると思います。

 

今ヨワヨワだったとしても、そのヨワヨワの時期が未来の自分を必ず強くします。今の自分がいくら弱くとも、未来に絶望する必要はないと思います。

 

逆に自分の中で目標や指標が定まっているのであれば、結果が出るまで強いメンタルで努力や忍耐を継続できる可能性があるので、客観的な根拠や周りを説得できる妥当性がなくてもその道に進む価値は十分にあると思います。

 

 

宣誓

私はこれからの人生、

「みんなが楽しくなれるかどうか」を基準に

ものを考え行動し生きていくことを誓います!

 

それ以外の謎ルールや意味不明規制、なんじゃこれ慣習、もはや今これ必要ないやろマナーなどは、気にしない!

 

暇な人に怒られても嫌われても、悲しそうにしてる人の楽しさを守る選択をする!

 

だって暇な時に怒れるネタあるのも楽しいことでしょ?

自分の安全が保たれているときに他人に正義感を振りかざす娯楽が得られるのっていいことでしょ?

 

私が正しいと思う選択に共感しない人がいることや、怒りを感じる人がいることを恐れずに生きたいよ。

 

分からないことも腹が立つことも別に自然なことなんだもん!あなたが私を分からなくても、あなたが私に腹が立っても、それが人生!それが世界!私はあなたの責任を取る必要はないよ。あなたも私をどうにかしようと思わなくていい。

 

そういう人達に怒られてもいいから、悲しんでる人や楽しくない気持ちにある人の隣に立って、一緒に楽しくなれる方法を考えます!

 

よく分からない怒りに晒され自分が楽しくなくなったときは、言われたことの八割忘れるね🥲

 

未来の楽しさのために反省はすれど、人の目を気にして自分の楽しさを殺すのはやめる!

 

悲しさには寄り添う、怒りはほっとく!

それが楽しさを追求するために必要なことなんだよね。

 

悲しみには寄り添いが必要で、悲しい時にたったひとりぼっちの完全な孤独になっちゃうと人は生きていけない。いつまでもその人、楽しくなれない。

 

でも人の怒りにまで寄り添ってたら、自分が楽しくなくなってくるんだよ!

 

怒りを処理できるのはその人自身だけだし。その人の中で大切にしてる規律が、その人の中に怒りの感情を生み出すの。周辺環境なんて単なるトリガーでしかない。怒りは自分を知り、自分を豊かにするために使うもの。人生にとっての怒りはコーヒーにとっての苦味!カレーのスパイス!他人に取ってもらうもんじゃない!

 

そして楽しさは人と共有するためにある!楽しさって奪い合う必要のない豊かさなんだよね。分け与えることはできても奪い合うことはできないの。他人のこと楽しくなくさせても私は楽しくならないんだよ。

 

運良く得られたこの命、一瞬一瞬に楽しみがあることこそがみんなに共通する人生の財産だと思う!

 

一部の人が楽することと、みんなで楽しくなることは別のことだ

 

みんなで楽しくなろう!

私はいつも、自分含めみんなが楽しいと思えるものを追求します!

幸せすぎる場所!!!息がしやすいサイコーplace東京!!!!

色んな友達に会いたくて、以前住んでいた東京に再び遊びにきました〜!

 

そこで思ったこと。

 

東京、めっちゃ息しやすい!!

とんでもない居心地の良さ!!

 

本当に、本当に楽!!!

 

東京に行くことで、地元に住んで近県で働く今の生活が無意識のうちにすごく自分のストレスになっていたことに気づきました。

 

もちろん地元や近県にも沢山の良さがあるんです。ただ、私自身の性質がそこに合っていなくて、私の生き方では地元の良さを十分に活かすことができないですし、その魅力や恵みを享受することもうまくできていないんだなと気づきました。

 

地元や近県の方々は、相手の属性や振る舞い方、言動などを無意識のうちに事細かに観察し、相手がウチの人間かソトの人間か&味方か敵かを厳密に判断しているような印象を受けるんです。住んでいてすごく他者からの視線やジャッジを感じるんですよね…。

 

正直自分は浮いてるなと思うし、浮いたまま生きることを許されない環境なので、周りに合わせてひとつひとつ自分というものを組み替えた状態で生きる必要があり本当に大変です。

 

一方東京は色んな人がいて当たり前の世界なので、他者に直接的に危害を加えずにこやかに親切にしていれば誰も私のことを気にせずいてくれますし、個として扱ってもらえます。

 

また東京では人やトレンド、社会そのものの流れや変化が早いので、私の思考や行動のあり方と東京の流れの速さが合っていて本当に楽です。

 

地元は何もかものんびりな割に、他者に排他性を示すときだけはすごい速さで敵認定して見限るので、私とうまく噛み合っていないんです。私はものを考えたり動いたりするときはある程度テンポのいいスピードに乗りたいけれど、相手がどんな人か知る時は時間をかけたいなと思う派です。だから私が地元にいるときは余計なことを考え込んでしまいすぎるように思います。

 

まあ東京でも合わない場所は合わないので「東京全域の流れが合う」というよりは「地元にはないが東京には自分と流れが合う場所もある」という感覚に近いですね。東京にいれば全て解決するとは思っていません。ただ、自分に合った居場所をきちんと見つけていつかそこに移りたいという思いになりました。

 

私は今、地元から通える近県で働いています。まずはお世話になっているこの職場で今の自分にできることに向き合いたいですし、一旦ここで人のために頑張りたいという思いがあります。そのため今すぐ地元を離れるつもりはありません。

 

 

でも!

絶対に!

またいつか!

東京に来るで〜!!!!!

 

そう決心した旅行となりました。

最近出会った映画と書籍 『心の傷を癒すということ』


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■映画『心の傷を癒すということ』

阪神・淡路大震災発生時に被災者の心のケアに尽力された精神科医、安克昌先生の人生をモデルに作られた作品です。ドキュメンタリー作品ではなく物語として作られているため作中の主人公の名前は「安和隆」さんとなっていますし、他の設定やストーリーの流れも映画用に変更・脚色されているかと思います。

 

こちらの作品では、大切な家族のため、そして数多くの患者さんや被災者の方々のために安和隆先生がご尽力される姿が描かれています。先生は30代という若さで癌を患い亡くなられるのですが、闘病中の自分の苦しみについて「私は患者さんの気持ちを浄化することに努めてきた。私が弱音を吐いたら、それは他の人にとっての毒になってしまうのではないか」という心情を吐露するシーンが非常に強く印象に残りました。

 

その気持ちは私がこれまで抱えてきた悩みと全く同じだったからです。今まで人に話しても分かってもらえなかった気持ち、いつも人から「考えすぎだよ」と言われて心の中からうまく流していくことができなかった淀みに対して、私と同じように真摯に悩む主人公の姿が描かれていたことが大きな救いになりました。このシーンと出逢えたことで「私はこれでいいんだ。こういうことに真摯に悩んでいてもいいんだ。これこそが私なんだ」と思えるようになりました。

 

安和隆先生にとって、人が悩み苦しみ、時にそれが継続的な心身の不調に繋がってしまうことは、改善すべきよくない事態であり、その原因となっているものはその人にとって浄化されるべき毒だと感じていたのかもしれません。だから自分の中の毒を人にさらけ出すことがとても恐ろしく難しいことだったのではないかと思います。

 

ただこの世界は広く多様なので、自分にとっての毒が他人にとっても同様に毒なのかというと、実はそうでもないのかもしれませんね。

 

薬も毒も表裏一体です。安全性が確かな医薬品でも健康な人が服用すれば健康を害するリスクが生じますし、逆に何かしらの毒が特定の条件下において何かの状況を改善する薬として作用することもあると思います。安先生が「毒なのではないか」と恐れていた心情は、私にとって大いなる薬になりました。作中の台詞は私が自信を取り戻す深い助けになりました。

 

人間といういきものは、共感し合いながら協力して生きることに大変優れている性質を持っているように感じます。そんな人間にとって「自分はひとりではない」と思えることは良薬なのでしょう。

 

映画のタイトルは、安克昌先生が阪神・淡路大震災での精神ケアのご経験について書かれた書籍『心の傷を癒すということ』から来ているようです。こちらの書籍も購入してみました。今半分くらいまで読んでいますが、被災することが人に与える心理的なダメージついて自分は何も知らなかった上に、あまりよく想像もできていなかったなと痛感しています。いつか自分が被災者になったときに、自分や周りの人を守るためにどのような考え方や行動ができるだろうかと想像しながら読み進めています。


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そういえば映画の中で、主人公の妻が見知らぬ人から「兵庫の人が被災したのは罰が当たったからだ」と言われ傷つくシーンに驚いたんですよね。私は阪神・淡路大震災の前年に生まれ関西で育ったのですが、義務教育の期間に「あの時の被害や悲しみを繰り返さない」という思いを強く感じられるような熱心な防災教育を受けてきたので、幼い時から私にとっての震災は「いつどこで起こるか分からないもの。万が一発生した際は、周りと協力しながら適切に対応し被害の拡大を防ぐもの」でした。

 

でも言われてみれば、阪神・淡路大震災の前は長らく大きな震災がなかったのかもしれませんし、未曾有の災害に対して「なぜこのような事態になってしまったのか。どうすれば自分はあのような被害を防げるのか」と考えた際に「もしかするとあの人達は何かの罰が当たったのかもしれない」という結論を出す方も中にはいらっしゃったのかもしれません。私が今、震災に対して「いつどこで起こるか分からないもの」と考えているのは、安克昌先生のように、阪神・淡路大震災後に人や社会が回復していくことを目指して尽力し、そこでのご経験を広く発信してきた方々がいらっしゃったからこそのものなのだと気づきました。

 

その後の日本では大きな震災が続いていますが、被災者の方々から「私たちのことを、この震災の被害を忘れないでほしい」という声を聞くことがよくあります。人間にとって誰かをひとりにしないことは苦しく辛い思いをしている当事者のために非常に大きな意味を持ちますし、過去から学び伝え合っていくことは私たちみんなの未来のために意義のあることです。

 

『心の傷を癒すということ』という作品との出会いは、人間の本質である「協力し合い生きていくこと」について改めて強く意識するきっかけになっています。

今日はようやく、自分のことを愛せるようになった気がします

三島由紀夫さんの「命売ります」を読みました!

 

この作品のラストに対して私はとても安心感を持ちましたし、人生というものに対する慈しみを感じました。主人公は別の感情を抱いているようでしたが…。

 

私は長い間、人が孤独であることを「辛い」と感じ、人と人との相互理解が難しいことを「苦しい」と感じていましたが、最近そうでもなくなってきたんですよね。そんな中でこちらの本を読んで心がスッと軽くなり「何も残らず孤独で理解されないことこそが人生の醍醐味なのだ」と感じました。

 

星の描写もよかったですね。

私は星が本当に好きなんです。星ってあんなに綺麗なのに、何も残らないですよね。

 

悲しい夜に星空を見上げてひとつの星の輝きに心を打たれ勇気をもらえることがあっても、私はその星のことを何も知らないし、地球からどれくらい離れたどんな場所に存在していて、どんな成分でできていて、人間からどんな名前を与えられて、どれくらい長く存在しているのか何も分かりません。今後も詳しく理解することはありませんし、数時間後には星の寿命が来て消えてしまっているかもしれません。翌日には空に広がる星々の中でどの星がその星だったのかもう分からなくなっているでしょう。

あんなに綺麗なのに、星そのものの情報については私の中で何も残らない。

 

それがすごく好きなんです。

あの時励みになったのは確かなのに、あの星のおかげで少し息を吸いやすくなったのに、何も残らず、いつかは星に救われた記憶すら忘れていって、あの晩失わなかったからこそ今日この日まで生き延びることのできた自分のいのちだけが残る、それが本当にいいんです。

 

孤独が辛い、理解されなくて苦しい、そういう感情は「残るもの」に対する執着心が絡んでいるように感じます。私はずっと「残るもの」を作り出せる人間になりたいという憧れがありました。学校施設とかインフラとか、社会貢献性の高い事業を行う組織とか、音楽とか小説とか、何か自分が関与し生み出して、名前を持って残り続け、人に影響を与え続けるものを作れる人がかっこいいと思っていました。

 

同時に「そういうものに憧れる気持ちを持ってはいるものの、自分の性質としては『残るもの』や『名前のあるもの』に対する執着心が弱いから、それらのために自分を尽くす生き方を目指すべきじゃないんだろうな」と感じていました。憧れがあったからこそそれらを成し遂げられる方々と自分との性質の違いを理解していましたし、自分は自分の性質を活かした方がいいと思ったんです。

 

私はどちらかと言えば星みたいな生き方をするのが楽だし輝けるんだと思います。

自分の言葉やエネルギーで人に励みを与えたいけれど、それが「私のものですよ」という形で残り続ける必要性はあまりなく、その瞬間が過ぎ去ればもう相手の中で私の存在があやふやになってしまうような、一期一会の存在でいいんだなと思いました。

形に残すことに執着しなくていいから、過去をどんどん忘れていっていいんだ、未来ばかりを見ていていいんだと思いました。

 

私は三島由紀夫さんの最期は孤独だったのだと思いますし、誰も三島由紀夫さんの本当の思いを完全には理解しようがないとも思います。でも同時に、それこそが私の中で彼の輝きとして存在しているなと感じたので「私も孤独であることや人との相互理解が困難であることを許そう。私はむしろ、それらをいいものとして愛そう」と思えるようになりました。

 

何かに所属することに自分のアイデンティティを奪われることなく、また誰にも所有されずに、ひとり輝く星のように生きていたらそれでいいんだと思います。

 

「残さない」人生は、すなわち権威性を持たない人生を表します。星を見た時に人が素直に自分を見つめ直せるのは、星には権威性というものがなく、どんな人から見ても自分と対等な存在だと感じられるからです。

 

「残るもの」を目指せる性質の方々は、その権威性のなさを心許なく、また味気なく感じると思いますが、私は逆にそこに温かみや自由さを感じるので、そういう性質を個性として大事にしていきつつ、私が憧れてきた他の方々と違う役割を果たすことでより彩り豊かな世界を目指していきたいです。

 

今日はようやく、自分のことを愛せるようになった気がします。

 

悩むとは迷っている状態ではなく自分の意見に自信が持てていない状態

人の悩み相談に乗るってすごく難しいことですよね!

 

話を聞き、相手の価値観と自分の価値観の双方を踏まえて「こうしてみたら?」とアドバイスすると、なぜか相手から怒られて「ええ〜!結局共感してほしかっただけ!?」や「もう自分の中でほしい意見が決まってるんじゃん!」と思ったり、

 

「分かった分かった。じゃあ次は相手に委ねてみよう」と思い、別の人に「あなたが選んだらいいんだよ」と伝えたら「そんなんじゃ迷いが晴れないんですが…」という顔をされて「いや、委ねられたら困るんかい!」と思ったり…。

 

みんな何を求めてるの!?

 

何が正解なの!?

 

何を言ってあげればいいの!?

 

ということがなかなか掴めない、難しい世界だと思います。

 

そして私は気づきました!

悩んでいる状態とは自分の意見に自信を持つことができていない状態のことであり、悩みが晴れるということは自分の意見に自信を持てる状態になることなんだ、ということに!

 

悩んでいる人が求めていることは、実は他人のやり方で問題を今すぐ解決することではないんです。本人が焦っているとこちらも焦ってきますが、本当はスピード勝負の話ではないようなんです。

 

本人が「本当にこれでいいのか…?」や「こんな気がするんだけどどうなのか…?」となんとなーく思っていたり思っていなかったりするような、かたちが曖昧になってしまっている意志を整理して「私はこう思っているんだ」という形を作り「それでいいんだ」と納得できる状態になることを求めているんだと思います。

 

悩んでいるということは、複数の手段や選択肢のメリットとデメリットをそれぞれ理解している状態にあるということです。ですので悩んでいる人にこれ以上何かを理解させようとする必要はありません。逆に情報を与えすぎることで余計に本人の意志が曖昧になり悩みが深まる場合もあります。

 

まずは本人がどうありたいのかを理解する必要があります。この人はこうありたいんだというシンプルな意志が理解できたら、それに対して「それでいい」と伝えるために外部の情報を活用したらいいんです。「こんな人もいるからあなたもそれでいいと思うよ」や「私はそれはアリだと思う」あるいは「こういうデータがあるからあなたもきっと大丈夫だよ」という使い方です。

 

まず先にやることは、本人の外の世界を根拠とした情報を増やすことではなく、本人の中にある気持ちや意志を理解し「つまりこういうことだよね」と気づきまとめることなんだと思います。まず内側の要望をしっかり整理しシンプルな形に落とし込むことで、初めてその意志が外の世界と合うかどうかや、合わないとしたらどんなふうに調整していく必要があるかといった外部との関わり方の話ができるんですね。

 

中には外部との調整が不必要な場合もあります。ただそういうときでも、本人の内側の意志に気づいただけでは「とはいえ本当にそれでいいのか」という迷いが残ります。その次の「はい、それでいいですよ。とりあえずまずはそれでやってみましょう」と伝える段階において、聞き手の考えや価値観、客観的な情報などを入れ込んでいくと本人の自信に繋がりやすくなるのでしょうね。

 

たまに「それはさすがにそれでいいとは言えないな!?」と思う悩みを持っている方もいらっしゃいますが、そういう方でも「これではよくない」という自覚があるからこそ悩んでいるんですよね。気持ちがぐちゃぐちゃになっているので一時的に言動もぐちゃぐちゃになっているだけで、結局よくよく話を聞いて整理していくと「それでいいじゃん!」と思えるところに落ち着いていけることが多いです。

 

本当に「それでいい」と1ミリも言える状態にないようなとことんマズい人って、実は全然悩んでないんです。

ひとつの「それはナシやろ」な道を盲信しちゃってるわけですから、本人は悩んでいないですし周りにも相談しないんですよ。一人で決めてしまって一人で突っ走って一人でやらかしちゃうんです。こういうときはいざ失敗してから悩み始めます。

 

悩んで悩んで外部に気持ちをポロポロと話している方は、色んな選択肢のメリットとデメリットを理解した上できちんと比較し、どうしても決めきれない状態にあるからこそ悩んでいるので、実は悩んでいる状態を含めちゃんと正解ルートに乗っていますし、答えも本当は既に本人の中に存在しています。

 

あとは本人が腑に落ちたらいいだけ、「今はこれを信じよう」というものが絞れたらいいだけなんですよね。

 

だから悩みを聞く側は「友達の部屋の掃除と模様替えを手伝う」みたいな感覚でいるといいのかなと思います。

友達の部屋がゴッチャゴチャになっていて困っているとします。まずは掃除をする必要があるので、本人に「これいる?いらない?」と聞きながら不用品を捨てていき、残った必要なものを整理整頓しますよね。それがきちんとできると、次は「こういう雰囲気の部屋を目指したいな〜」というものが見えてくると思いますので、その部屋を目指すために新たに必要なものがあれば購入し「よし、これで素敵な部屋になったね!」という状態になれたら終わり、というような段階を踏んでいくかと思います。

 

友達が「今の部屋だと不満だな、変えたいな」と思ってとりあえず部屋の掃除と模様替えをしようというときに「え!日当たり悪くない?引っ越した方がいいよ〜」や「パソコンデスクないの!?それじゃ姿勢が悪くなるってデータがあるよ!パソコンデスク買いな!」というように、別に本人が気にしていないところや求めていないところまで「一般的に言うとその方がいいから」という理由でごちゃごちゃ提案すると余計に整理整頓から話が遠のきますし、「私はガーリーな部屋が好きだからあなたもガーリーにすべきだと思う!」と言い出すのもおかしいですよね。

 

友達の部屋の住民はあくまで友達であり、友達が住みやすい形に整理して友達が求めるテイストを目指すべきだと思います。それで結局行き着いた先が「自分から見るとまだ不用品が多すぎるように見えるし、自分から見るとそんなにセンスのない部屋」になったとしても、本人がそれでなんとかなるならまあいいかと感じるでしょう。

 

人の悩みを聞く時も、同じくらいの感覚でいいんだろうなと思いました。

 

一発屋は消えない

子供の頃や若い頃に「この方って将来どんなふうに生きてるんだろう?」と気になった方って、大体その先もいい意味で同じような生き方を継続されているなということに気づいてきました😂笑

 

例えば狩野英孝さん!

ロンドンハーツで何度かドッキリに引っかかり、50TAとして楽曲制作をされていた狩野英孝さん、私の家では大人気でいつも妹と楽しく番組を拝見していました。

子供の頃の私に本当に沢山の笑いを届けてくださったのでとても大好きなのですが、当日から世間に「一発屋なのでは?」と言われていましたので、将来どんなふうにお仕事をされていくのかが気になっていました。

 

でも今の狩野英孝さんは昔と変わらず世間に笑いを届けていらっしゃいますよね😂笑

狩野英孝さんに限らないかもしれません。昔流行っていたお笑い番組に出演されていた方々は、皆様それぞれの形で今も芸を磨き笑いを届けていらっしゃるという印象があります。

 

あとは、はあちゅうさん!

あまり詳しくはないのですが、私が若い頃「インターネットの世界で発信しご活躍されている方」というイメージを持っていた方です。そういう仕事の仕方をされている方をあまり知らなかったので、どういうキャリアパスを歩んで行かれるのだろう?と感じていました。

 

そこから時間が経った今でも、色々な発信活動や新しい仕事を通じてインターネットの世界でご活躍されていて、衰えを感じさせないエネルギッシュなお姿に感銘を受けます。

 

人それぞれが本質的に持っている個性って変わらないものなので、元々本人の性質に沿った生き方をされている方は、時が経って時代が変わっても新しい時代に合わせ自分の性質に合った生き方を継続されているのだなと思いました。

 

そしてこういうことを考えている時に「やっぱりこの人は外せないな〜」と思うのは、ですよ。さんです😂

 

この方はすごい!初めてお笑い番組で拝見した時はインパクトはあれど自分の笑いの趣味には合わないギャグをされる方だなと感じていましたが、それから長年の間、一日に何度もご自身のギャグを練習し続けてこられているそうで、今では非常に洗練されたキレのある形にギャグを昇華していらっしゃいます。

 

彼を見ていると、他人に評価されるか否かを気にして生きてしまう自分がどんなにつまらない存在なのかを思い知ります。ギャグ云々を超え、生きる姿勢が面白くユニークな方です。

人間が人間として生きる醍醐味を一番に感じられる生き方をされているなと思います。