人生のヒリヒリを味わい尽くしたい

人って自分が経験したことから何かを膨らまして想像したり表現したりすることはできますが、そもそもの経験が少ないと膨らませようにも限界があるので、他人にいい影響を与えられるエネルギーを持つものを作りたいのであれば、他ならぬ自分こそが沢山悩み沢山苦悩して沢山ヒリヒリする必要があるのだなと感じました。

 

昔も今も山のように高く海のように深く砂漠の砂粒のように数多くの悩みがありますが、これがあったから寄り添えるようになった方々がいますし、中には感謝してくださる方もいます。

 

だからこれからももっと悩んでいいんだ、いつまでもくだらないことに真剣になってもがいていいんだって思いました。

 

自分からかたちづくるこという行為はほんの少しずつしか進まないので非常に焦れったいのですが、そりゃそうですよね。美しい宝石だって、大きなひとかたまりの石を磨いて磨いて小さくしてほんのちっちゃな輝きにしていくのですから、そんなもんのペースでいいんだと思いました。

本当に人の悪口を言いたくなく、環境への文句も言いたくなく、美しい言葉しか言いたくないのに、できなくて、悔しくて

タイトルがもう全てです。

 

最近アザラシ幼稚園の映像を見ながら、

「この可愛いアザラシちゃん達もいつかは自然の険しい海で生きていくのに、こんなぬるい環境でも上手く生きていけてない私ってなんなのだろう。生きてていいんだろか」という罪悪感が湧いてきました…。

 

あの可愛いアザラシが海で、私が空調の効いた部屋…。

 

可愛いアザラシは海で怪我をしたら自分で治さなければいけないのに、わたしは病院で治してもらえる…。

 

可愛いアザラシは自分で餌をとれないと飢えてしまうのに、わたしはリスクを負うことなくおにぎりを食べられる…。

 

この世界の不平等をわたしはまだ受け入れられません。アザラシはわたしのことをひとつも責めていないのに、勝手に罪の意識が湧いてしまいます。アザラシはみんな己が生に集中しているのに、誰も喜ばない中勝手に悲しんで勝手に嘆いている自分は何なのだろうと思います。

 

アザラシのように、人や環境を悪く言わず、周りの人を癒し楽しませ、精一杯自分のいのちを大切にできる存在になりたい。自分の幸福を素直に喜べるようになりたい。生きるってなんて難しいんだろう。

ありがとうチェゴシム

「チェゴシム」というものをご存知でしょうか?

 

実は私こそがチェゴシムをよく分かっていないチェゴシム素人ですので、詳しい方がいらっしゃったらご教授いただきたいところなのですが…。


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(引用元:https://twitter.com/choigosim_jp/status/1830410314984100313 )

 

このように、可愛くてフッと肩の力が抜けるような画像を更新してくださるアカウントです!

(アカウントURL: https://x.com/choigosim_jp )

 

元々は韓国のキャラクターのようですが、日本公式アカウントでは日本語のコンテンツを楽しめます。


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(引用元:https://twitter.com/choigosim_jp/status/1814238763276542025 )


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(引用元:https://twitter.com/choigosim_jp/status/1820266182106312784 )

 

私は言語能力が低く、英語含めあらゆる外国語が全然習得できないことがコンプレックスなんですが…。

 

「チェゴシム」のあたたかで可愛い日本語に触れるうちに「言葉って気持ちの部分もすごく大切なんだな」と感じられて、とても勇気が出ました!

 

自分の言いたいことを極力正確に相手に伝えるためには知識やスキル面での上達が不可欠ですので、そういう勉強に意味がないとか必要ないということを言いたい訳ではないんです。

 

ただ、そもそも何のために言葉を使って自分の気持ちや思考を他人に伝えるのかというと、そこに相手に知ってほしい思いがあるからなんですよね。その思いが何なのかが非常に大切なんだなと改めて気づいたんです。

 

複雑で難しい文章よりも、「チェゴシム」で出てくるシンプルな日本語の一文一文の方が自分の味方になってくれる日だってあると思います。これだけ沢山の言葉に触れることができるSNSの世界で、一番今の私の励みになっているのは、日本語ネイティブの上級な日本語ではなく、短い文章で人をエンパワーメントしたりリラックスさせたりしてくれる「チェゴシム」の言葉です。

 

上手く書けないから意味がない、上手に話せないから自分の言葉は必要ないというふうに思わなくていいんだなと感じました。

好きだと思ったゆたぼんさんのポスト

ゆたぼんさんのこのポストを拝読して感銘を受けました!

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(引用元:https://twitter.com/yutabon_youtube/status/1831245155564945767 )

 

「アホでも受かる」という侮辱的な言葉に対して、学力の上下の議論をするのではなく「毎回約9000人が色んな思いで挑んでる試験です」という言葉が出てくるのが素晴らしいと思います。

 

わたしは「高卒認定を受ける方が9000人いらっしゃる」という情報を見た時に「へえ、そんなに沢山の人が受けるんだ!」という単純な数値に対する反応をすることはあっても、その一人一人がそれぞれに背負ってきたストーリーが存在するというところに目を向ける発想は持つことができていないように感じたので、目からウロコでした。

 

高校を卒業する方も高卒認定を受ける方も学力は人によって異なるでしょうから、どっちが上とか下とかいう話をするのは私もあまり意味がないと思います。ただ人からいきなり中傷されたときに「自分はどう思うか」を瞬時に引き出せるってすごいことだと思うんですよね。

 

一方的に強い言葉を投げられたときに、相手の価値基準に従うのではなく自分にとっての価値を主張することは、シンプルなようで意外と難しいものです。他者に勝つことではなく自分の人生を豊かにすることに真摯に向き合ってこないとできないことだと思います。

 

私は高校を卒業することも、高卒認定を受けることも、どっちもすごいことだと思います。どっちもやらずに10代をすごすのもひとつの人生だと思いますし、勉強の代わりに他のことに向き合ったならそれもすごいと思います。人の「できた!」や「やってこれた!」には等しく価値があると思いますし、上下をつけなくてもみんなに拍手したらいいじゃないかと思います。

 

それに、アホという言葉は「も〜アホやなあ〜(笑)」と自分や親しい人のやらかしを可愛く笑って許すときに使う言葉、人をあたたかく受け入れるための言葉であってほしいですね。

 

仕事の悩み

仕事に対するコンプレックスというか悩みというかモヤモヤがありまして「今の仕事は自分が理想とする仕事ではない」という思いが心のどこかにあるのがずーっと気になっていました。

 

過去には理想とする仕事に就けたことはあったのですが、自分の得意とするものを人のために提供したり、提供先の方々と直接コミュニケーションを取って相手の状況を理解し、そのニーズに合ったものを用意したり…ということがなかなかできない環境だったので、それと比べると今の仕事の方が自分の得意分野を活かせるし、お客さんに合わせるということがやりやすいんですよね。

理想は理想、仕事は仕事と考えた時に、仕事としては今やっていることが今の自分にフィットしてるなと思います。

 

ただ「昔のように活き活きと理想を追いかけていた自分はもう死んでもうたんか」という寂しさもずっとありました。日々の仕事に励むことと、自分の信念に向かって生きること、どうやったら双方とも実現できるのだろうと悩んでいました。

 

一方で、仕事という活動は、その業務に元々存在するゴールにしか効果がないわけではないんですよね。

 

何年か前に、交通整理の仕事のために道に立っていらっしゃった方にとても素敵な笑顔でご挨拶していただことがあって、すごく気持ちがあたたかくなったことがありました。

 

ドルヲタであり、アイドルという仕事に憧れつつもそうはなれない自分に自信を持てない若者を多数見かける環境にいた私は、その時に「アイドルってステージの上に立って歌って踊る人だけを指すわけじゃないんだ。笑顔を通じて人の心に喜びを与えられたら、どこに立って何をしていたってもうアイドルなんだ」と感じたことがあります。

 

また過去には何年通院しても治らなかった病気が推しグループのおかげで治ったこともあります(大分内容を端折っているので書いていることが意味不明だと思いますが😂)。

推しグループもまさか自分達の仕事が人の病気を治しているとは想像していないと思います。医療行為をしているのではなく芸能界で音楽活動を行っているアイドルグループに命を救われて「仕事というものは、やっている側が価値の全てを決められる訳ではないんだ。受け取り手の状況よってもその効果が変わるものなのだ」と感じたんですよね。

 

だから「この仕事は理想と違うな」と決めてしまうのは視野を狭めるだけなのかもしれません。

「私の理想はこういう形で存在していて、その手段として有効なのはAという道だ」と自分が勝手に思っているだけで、Bという道やCという道を選んだって、真摯にコツコツやっていたら理想に近づけるのかもしれません。

 

そう考えるとやっぱり、自分が生来持っている性質を人のために活かしつつ更に伸ばしていける仕事を続けることが私なりの正解なのかなと思います。

 

人それぞれ得手不得手がありますし、どう頑張っても伸ばせない分野と伸びやすい分野をそれぞれに持っている中で、仕事としてやるならやっぱり他人に価値として提供できるものを選ぶ必要があります。

 

そして他人に価値として提供できているものに対して「でも理想とは違うんだよなあ。自分が社会に与えたいものはこれじゃないんだよなあ」と決めつけてしまうのはもったいないのでしょうね。

 

価値は価値なんだから、受け取り手の解釈や活用方法や意義付けも自由で幅広いわけで、ひょっとしたら思いがけない形で今の仕事が自分の理想に繋がっていっている場合もあるのかもしれないなと思いました。

敗北宣言

自分の周りにいる人の悪口は絶対に言いたくないという頑固なこだわりを持っていたので、職場でどんな思いをしても相手のことを悪く思わないように耐えていたのですが…。

 

やはり職場というものは自分で人間関係を選べる場所ではありませんので、それではどうしても限界がきてしまい…。

 

ついに解禁しました。

私は明日から、心の中で人様に対し「クソババア」と思うことを許します。

 

これは自分に対する敗北宣言です。

いつかは誰のこともクソともババアだとも思わずに生きられるようになりたい😭

でも今の自分の未熟さでは無理だと理解しました。諦めました。心の奥底から沸き立つクソババアへの憎悪を押し殺し、他の考え方を持とうと頑張り続けても、それは結局砂利をステーキだと思って食べ続けるのと同じ。どう調理したって砂利は砂利であり体に毒なんです。頭でどう捉えようと毒は毒。

 

どうしてクソババアにクソババアだと思いたくなかったのかというと、クソババアにだって優しい瞬間はあるからです。そりゃ人間ですから…。ロボットじゃありませんから色んな瞬間がありますよね。人と人が一緒に生きることそのものが一種の助け合いですし…。

 

私はクソな現実より、その一瞬の相手の輝きを心に留め続けたい。相手の足りないところではなくできているところに目を向けたい。そう思って如何なるときも耐えてきました。

 

でもよくよく考えたらクソババアに「今日もクソババアだな」と思っていた方が、一瞬の優しさが垣間見えた時の輝きをより強く感じ取れる可能性があるんですよね。ヤンキーが捨て犬を助けたらなぜか普通の人が捨て犬を助けたときより感動しちゃうみたいな。

 

そこでこの世をより良く生きるために、クソババアのことはクソババアだと思うことにしました。

ババアと言っても年齢がババアだからババアと定義しているわけではありません。精神的にババアな人間は皆ババアだと思います。

 

正直、できるのであれば常に澄んだ川みたいな心で生きたいです。人の素敵なところを大切にしたいし、弱いところも受け入れられる人間になりたいです。でも自分みたいな若輩者が今すぐそれを完璧にこなすというのは無理でした。VSクソババア戦、敗北です。

本当にほしいものはなんだかんだで手に入る

これまでの人生を振り返ると後悔も色々ありますが、冷静に考えて「どうしてもほしかったもの」はなんとか苦労して得られているような気がしています。

 

「どうしても」じゃないものは苦労しても苦労しても結局自分のものにはできていないです。

 

目指している最中は「どうしても」だと信じ込んでいるんですが、後から考えると「これを得たらこういう気持ちになれるのかな」や「これがあれば他人からこんなふうに見てもらえるようになるのかな」、「念の為にこれがあると安心かな」といった「それそのものがほしい」という欲求以外のところに目的が向いていたなあと感じるものに関しては、目指している途中で嫌になるか、一瞬だけ得た気になっても満たされなくてすぐに飽きるかしていますね。

 

そもそも世の中の大抵のものは、自分が直接所有や経験しなくても見ているだけで楽しいし、そんなに用意周到に色んなものをかき集めなくても人生なんとかなるということに気づきました。人生を安心安全かつ豊かにするために必要なものは、思考力や創造力、何かあった時の行動力、他者から協力を得るための社交性といった自分の内側に存在するものなので、どうしても外にあるものを得ないと解決しないことって実はそんなに数多くはないんだと思います。

 

一方で、ただずーっと外を見ているだけで豊かに生きられるかというとそんなこともなく、本当にほしいものを得るために努力することも時には必要なので、より自分にとって本質的に必要なものを獲得・維持するためにエネルギーを使いたいです。というかそれ以外のことにまでそんなにエネルギーを使えないです。

 

「あの人なんでも持ってていいなあ」と感じる人って、実は本人が持っている信念にすごく特化した生き方をしていて、なくていいものを求めずに生きる潔さがあるんですよね。本人が自分の持っていないものに未練を感じていないから他人の目から見ても満たされているように映るんです。そういう生き方って本当にかっこいいですね。